清水正の遠藤周作論(2)「『深い河』と遠藤周作の人柄」

清水正の遠藤周作論

わたしは『沈黙』論と『真昼の悪魔』論を書きおえてから『深い河』を読んだ。この遠藤周作の最後の小説に期待するものを感じたからである。しかし期待は裏切られた。この小説は緊密度に欠けた「浅い河」にとどまっている。『深い河』を絶賛する者がおり、遠慮があって中途半端にほめる者がいる。特に遠藤周作と生前交友関係を持った人達にそれを指摘することができる。
 『遠藤周作のすべて』(文藝春秋編 文春文庫 一九九八年)に収録された追悼文を読んでいると、遠藤周作がいかに友人や弟子たちを大切にしていたかが分かる。遠藤周作は良き生活人でもあったということだろう。しかし小説の評価は現実生活における作家の人柄で割引するわけにはいかない。この本に収録されたものに限れば、三浦朱門と中村真一郎が『深い河』に関して冷静な評価を下している。
 三浦朱門は鼎談「遠藤周作 信仰と文学」(安岡章太郎/三浦朱門/井上洋治)において「意図はよくわかるけれども、成功しているかどうかというのは別だとし「時々絵解きになっている」と指摘している。中村真一郎は鼎談「神の領域」(中村真一郎/矢代静一/北杜夫)において『深い河』の神父はもはやカトリックではないと断定した後で「僕はあれを読んで一番感じたのは、体力の衰えだな」「文学的には充分成功してないよね。宗教的には、言いたいことは言い切っているけども、そのプロセスが、文学的に説得的なまでには表現されてない」と指摘している。
 中村真一郎はジュリアン・グリーンやロマン・ロランがカトリックになる前にインドのラマクリシュナの信徒であったこと、ラマクリシュナの考えはカトリック、回教、仏教をも含む普遍的な立場に立っていることを紹介し、『深い河』は「完全にラマクリシュナ」だと断言している。
 中村真一郎は遠藤周作にカトリックへの入信をすすめられた経験を持っているが、「戦いと和解と」(「文學界」一九九六年十二月)の中で「私は彼のそのカトリックの教義を異常にまで拡大してみせる態度に、単に私を説得するための方便ではなく、真剣にそう考える傾向があり、それが彼の日本人的な優しさの本質に根差しているが故に、正統的な信仰に対する離反であると、教会の保守的な立場からは異端視されはしないかと、ひそかに惧れた。/それは彼が小説『沈黙』を発表するに及んで、現実のものとなった」と書いている。彼は遠藤周作のカトリックを正統カトリックとは見ていない。グリーンやロランがカトリックに回心した時、彼は再び遠藤周作に入信をすすめられるが「長い伝統を持つカトリックの国に生まれ育った彼らが回心するのは自然の成り行きであるが、汎神論的無神論の日本の風土に育った私には、やはり仏教的な慈悲に通じる聖者の下にある方がふさわしいし、心がやすまる」と答えている。彼にすれば遠藤周作は『深い河』においてカトリックの境界を踏み越えて仏教的な慈悲の方へと近づいているのである。

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