清水正の遠藤周作論

清水正の遠藤周作論(1)「遠藤周作はキリスト者なのか」

遠藤周作はキリスト者なのか、それとも小説家なのか。遠藤周作はキリスト教信者であると同時に小説家なのであろうか。わたしは宮崎駿、今村昌平、土方巽の本を出した時に、「母性とカオスの~」というサブタイトルをつけた。遠藤周作論も、当初は「母性とカオス」シリーズの一冊として考えていた。そのとき「母性とカオスの信仰」か「母性とカオスの文学」かで迷った。未だにこの迷いは続いている。
 『沈黙』論をお読みいただければ分かるように、わたしはロトリゴの転んでも棄教していないなどという論理は欺瞞の最たるものだと思っている。ロドリゴの転びをも許容する〈信仰〉を信仰と言えるのであろうか。もしそれをも信仰と言うのであれば、この世のどんな卑怯者も信仰者ということになってしまうのではないか。
 
わたしはロドリゴの〈信仰〉に苛立ちを覚えながら、しかし同時に『罪と罰』のマルメラードフやソーニャのことを思っていた。マルメラードフはロクデナシである。自分の実の娘ソーニャを銀貨三十ルーブリでイヴァン閣下に売り飛ばしてしまうようなロクデナシである。が、この男はそのことに誰よりも苦しみ続けた。彼はこんな自分を「豚でない」と断言できる者はいないだろうと言う。彼は自分を犬畜生にも劣るロクデナシだと思っている。しかし、この男が、にもかかわらず、否、それだからこそキリストを求めている。
こんなロクデナシをも救ってくださるキリストを求めているのだ。
 ソーニャは淫売婦となった。彼女が一日に何人の男たちを相手にしていたのか、どのような関係を取り結んだのか、ドストエフスキーはいっさい書いていない。読者はただ、ソーニャが一家の犠牲となって自らの体を売らなければならなくなったという、その事実だけを報告される。ソーニャは自分の行為に〈罪〉を感じ、キリストに救いを求めている。
酔いどれのマルメラードフも、淫売婦のソーニャもキリストを必要としている〈信仰者〉なのである。
 ロドリゴもキリストを必要としている。その点ではマルメラードフやソーニャと同じである。しかし、どういうわけかロドリゴには嫌悪を感じる。彼は自分の欺瞞や卑怯を弁解し正当化するようなあつかましいところがある。彼は自分の破廉恥を深く自覚し、そのことに苦しんだであろうか。マルメラードフやソーニャからは伝わってくる〈苦しみ〉や〈悲しみ〉が、どうしてロドリゴからは伝わってこないのであろう。
 遠藤周作はキリスト者というより、母親教の信者のように思える。遠藤周作がロドリゴやキチジローに体現した〈転び〉を重ねながらの〈信仰〉は、父性的な厳しいキリスト教の信仰とは相容れない性格を持っている。遠藤周作は母親から一方的に与えられた〈だぶだふの背広〉(キリスト教)を終生、着続けたことは確かである。が、この〈背広〉を着続けたということは、遠藤周作が〈母親〉を終生大切にしたということであって、彼が〈キリスト者〉であったという証にはならないのではなかろうか。
 遠藤周作は日本の土壌に根付く〈キリスト教〉があってもいいと考えていた。それは『沈黙』で体現された踏絵を何度踏んでも許される〈信仰〉、転んでも棄教したことにはならない〈信仰〉を許容する〈キリスト教〉ということになるのであろうか。
 隠れキリシタンは文字通り〈隠れ〉ている。転んでも棄教していないキチジローやロドリゴは〈隠れ〉ていなければならない。本来、疚しさを内に抱えて、隠れていなければならない〈信仰者〉が、自分の〈信仰〉を表立って主張すれば、卑怯者が自分の卑怯を正当化したと思われても仕方ないだろう。ロドリゴにどうしようもなく感ずる嫌悪はおそらくここに因る。
 遠藤周作をキリスト教信者と見ると、たいていの日本人はその中に含まれてしまうだろう。なにしろ遠藤周作は卑怯、卑劣をも許し、包み込んでくれる母性的な神を求めているのであるから。しかし、母性は残酷で厳しい側面も備えている。キチジローやロドリゴの卑怯と甘えを絶対に許さない母性もある。
 キチジローは〈弱か者〉に開き直り、ロドリゴは転んでも棄教していないと言い張る。こういった卑怯者たちの内面は、まさにぐちゃぐちゃの泥沼であり、井上筑後守の言ったキリスト教が決して根付かぬと言った日本の風土そのものを体現している。

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