『城の崎にて』を読む(11)

清水正の志賀直哉論

ドストエフスキーはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前にして異様に興奮する。傍らにいた妻のアンナは夫がてんかん発作を起こすのではないかと心配したほどである。ドストエフスキーがどのように「死せるキリスト」を見たか。それは先に引用したようにイッポリートの弁明の中で披露された。十字架から下ろされたばかりの生々しいキリストの死体、この死体の復活を信じられる者はいるのか。弟子も、使徒たちも、そして後に深くキリストを愛し信じた者たちも、もしこの死体を眼前にしたら、誰一人としてキリストの復活を信じることはできなかったであろう。これが余命二週間の少年が抱いた率直な感想である。この感想がそのままドストエフスキーの感想でなかったことは明白であるとしても、しかしこういった思いが拭いがたく存在したことも確かである。
 
ドストエフスキーの信仰が一筋縄でいかないのは、彼の場合、神に対する〈不信と懐疑〉が大いなる信仰の前提になっていることである。『悪霊』のフェージカは二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに金で雇われた殺人者であるが、この殺人者の中にも信仰心は熱く息づいている。ソーニャは淫売婦であってキリスト者、マルメラードフはわが子ソーニャを閣下イヴァンに売り渡すようなロクデナシのアル中だが、この彼が誰よりも深く切なくキリストを求めている。イッポリートもまた「死せるキリスト」の復活を誰よりも願っていた存在と言っていい。イッポリートがムイシュキンに求めていたのは、イエス・キリストの言葉「わたしが命であり、復活である」という、その言葉であったはずである。しかし、ドストエフスキーは〈真実美しい人間の具現化〉であったはずのムイシュキンを、白痴へと追いやってしまった。ドストエフスキーの信仰は深く懐疑的である。彼の信仰は不信と懐疑の坩堝のただ中に生きている。
 ドストエフスキーの文学はポリフォニック的でありディオニュソス的である。志賀直哉の文学はモノローグ的でありアポロン的である。志賀直哉の小説を読んでカオスの沼に落ち込んだような感覚を抱くことはない。たとえカオスを感じてもドストエフスキーのそれとは比べものにならない。〈イエス・キリストの遺骸〉を見て、イッポリートが覚えたような悩ましい不信と懐疑に落ち込むことはない。志賀直哉の反応は素朴である。〈グロテスク〉で〈厭やな繪〉。これでマンテーニャの〈キリスト〉は容赦無く拒まれてしまう。なんでグロテスクに感じるのか、なんで厭やと感じるのか、崇高とは何か、このキリストの遺骸は本当に復活するのか、・・志賀直哉はドストエフスキーの人物であれば執拗に問い詰めていったであろうことを、何一つ自らに問おうとはしない。志賀直哉は〈姦淫の罪〉に対しては立ち止まって懐疑したが、その他多くのキリスト教の教義に関しては無関心を装っている。彼は〈姦淫〉を〈罪〉と思わず、キリストの復活を信じていなかったことはほぼ間違いないであろう。もし彼が罪を罪と思い、キリストの復活を信じていたなら内村鑑三の元を離れることはなかったであろうし、離れたとしてもキリスト者であることを止めはしなかったであろう。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。