『城の崎にて』を読む(8)

清水正の志賀直哉論

彼は見る眼差しと化して、蜂の生活に干渉しない。彼はひたすら見続ける。〈如何にも生きている物〉という感じを与える〈忙しく立働いている蜂〉、〈如何にも死んだもの〉という感じを与える〈一つ所に全く動かずに俯向きに転っている〉蜂、彼はその両者を見続ける。〈生きている物〉と〈死んだもの〉は〈物〉〈もの〉と表記分けはされているが、両者共に時のただ中の事象として等価である。〈生〉が〈死〉よりも素晴らしいわけではなく、〈死〉が〈生〉よりも際立って見すぼらしいわけでもない。ここでは〈生〉と〈死〉が見事に無関心である。〈生〉は〈生〉であるほかはなく、〈死〉は〈死〉であるほかはない。〈生〉の側に〈死〉に対する微塵の奢りがない。この場面を見ると、人間が愛する者の死に直面したときの〈悲しみ〉〈慟哭〉〈苦悩〉〈祈り〉すらもが奢りに思えてしまう。
 
「それは三日程そのままになっていた」・・元、基督者内村鑑三の弟子であった志賀直哉がこう書いている。死んで三日たったラザロはイエスの言葉に応じて蘇生した。彼は、朝も昼も夜も、三日間にわたってこの「全く動かずに俯向きに転がっている」蜂の死骸を見続けた。もしこの死体が蘇り、今再び仲間と共に八つ手の花に群がり飛ぶようなことがあれば、俺はすぐにキリストの門へと下るだろう、そんなことを彼が全く考えなかったとは言えまい。しかし彼はもはやそんなおとぎ話のような幻想に耽ることはできない。「冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」この言葉が彼の心境を率直に語っている。〈死〉は〈死〉でしかないという、その冷徹な現実をそのままに受け入れた心境であり、そこにはわめきも呻きもない。愛する者の死を受入れざるを得なかった者の淋しさ、静けさがそのままに伝わってくる。
  夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根も綺麗に洗われていた。蜂の死骸はもう其処になかった。今も巣の蜂共は元気に働いているが、死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう。外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう。それとも蟻に曳かれて行くか。それにしろ、それは如何にも静かであった。忙しく忙しく働いてばかりいた蜂が全く動く事がなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。(26)
 彼が翌日の朝見たのは、復活の秘儀ではない。彼が見たのは夜の間の〈ひどい雨〉と朝の〈晴れ〉である。蜂の〈死骸〉は蘇生というキリスト教の復活劇の主役を張ることはできなかった。〈雨〉は〈木の葉〉も〈地面〉も〈屋根〉も綺麗に洗った。が、彼は夜の間の〈ひどい雨〉が蜂の死骸をも洗ったとは書いていない。彼は「蜂の死骸はもう其処になかった」と書くばかりである。〈其処〉にないということは、その蜂の死骸が「洗われ」たことを意味しない。彼は「死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう」と書いた。この文章は面白い。何が面白いのか。先にわたしは彼は眼差し(カメラ)と化してあるがままの現実を映し出していると書いたばかりである。ところが、この文章は〈現実〉の描写ではない。「蜂の死骸はもう其処になかった」これは彼の眼差しがとらえた事実である。しかし次の文章は彼の推測であって事実ではない。現実を映し出す、そのリアリズムに徹していたかに見えた彼は、ここで現実から離れている。彼は「蜂の死骸はもう其処になかった」その事実から、蜂の復活を想像したりはしない。彼の想像は、雨に流され、泥にまみれて何処かで凝然としている蜂の死骸を思い描くだけである。
彼は死骸が蘇生するなどということははなから信じていない。「外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう」と彼は続ける。彼が言う〈外界にそれを動かす変化〉とは超越的な神的存在を意味しない。それはあくまでも自然の気象条件であったり、蜂の死骸を餌にする蟻の働きであったりする。彼は、時のただ中に起きるすべての事象を自然の摂理と見ており、そこに奇跡が介入することはない。〈死〉は〈死〉として自然の摂理の中に組み込まれた必然であり、〈死〉が再び〈生〉を獲得したりする奇跡は認められない。人間には復活を望む気持ちがある。しかし志賀直哉か苦しんだのは〈姦淫の罪〉であり、それは〈殺人の罪〉に値するというキリスト教の教えであった。
もし死後、人間が肉體を伴って復活するようなことがあれば、人間は再び〈姦淫の罪〉を犯さざるを得ないであろう。そんな復活は一向に救いにはならないと考えたのが志賀直哉である。彼は蜂の死骸が復活の曙光に輝くことなく、雨に流され、泥にまみれ、やがては蟻の餌になるか、朽ち果ててしまうであろう、そういった自然の流れの中で〈死〉を全うするしかないと考える。その考えを淋しく思うが、同時に彼はそれは如何にも静かであると感じている。〈静か〉とは、運命愛と言ってもよい。ニーチェの声高なそう病的な運命愛の宣言ではなく、志賀直哉は静かに、この世に誕生してきたもののすべてが等しく受け入れなければならない〈死〉を受け入れている。この心境は、運命と合致することを受け入れる心境であり、その静かさのうちに〈神〉に対する反逆の牙を潜めてはいない。志賀直哉は父との確執のただ中に生きながら、しかし自らの運命とはいち早く和解を達成したかのように見える。否、この『城の崎にて』(発表は大正六年五月)を書いていた頃にはすでに父との和解の境地に達していたのかもしれない。因みに『和解』の発表は大正六年の十月である。
「泥にまみれて何処かで凝然としている」蜂の〈死骸〉は、先に描かれた小さな潭になった所に「石のように凝然としている」〈足に毛の生えた大きな川蟹〉を想起させる。蜂の死骸も川蟹も〈凝然としている〉ことで同一のイメージを起こさせるわけだが、しかし前者はすでに死んでおり後者は未だ生きている、この点が両者の決定的な相違点である。
すでに指摘したように、彼は凝然としている蜂の〈死骸〉が、或る神秘的な働きによって蘇生するなどとは考えない。彼の推測はあくまでも物理的な考え方に則っている。「死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された」のであって、それ以下でもそれ以上でもない。そこには〈死骸〉の復活を願う神秘的な思い入れもなければ、絶望もない。淡々として自然のあるがままの姿を受け入れている。
 しかし、にもかかわらずわたしの脳裏に、彼が心の奥底に押さえ込んだ何かが過る。その何かとは〈キリスト〉幻想である。わたしは志賀直哉が十七歳から七年もの間、内村鑑三の弟子であったことはかなり大きな拭いがたい影響を彼に刻印していると思う。多感な青春期を内村鑑三に師事したことの意味を軽んじることはできない。わたしは志賀直哉が「足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう」と書いた〈蜂の死骸〉が、まさに十字架から下ろされたばかりのキリストの死体に重なって見えるのである。
 ドストエフスキーは『白痴』の中でイッポリートという余命二週間を宣告された少年を登場させている。この少年はハンス・ホルバイン作『死せるキリスト』に関して「これは十字架にのぼるまでにも、限りない苦しみをなめ、傷や拷問や番人の鞭を受け、十字架を負って歩き、十字架にもとに倒れたときには愚民どもの笞を耐えしのんだあげく、最後には六時間におよぶ(少なくとも、ぼくの計算ではそれくらいになる)十字架の苦しみに耐えた、一個の人間の赤裸々な死体である。(略)その顔はすこしの容赦もなく描かれてある。そこにはただ自然があるばかりである。(略)この絵の顔は笞の打擲でおそろしく打ちくだかれ、ものすごい血みどろな青痣でふくれあがり、眼を見開いたままで、瞳はやぶにらみになっている。その大きく開かれた白眼はなんだか死人らしい、ガラス玉のような光を放っていた」と書いている。イッポリートは「こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」という疑問にとらわれる。イッポリートはこの絵を見ながら〈自然〉が〈何かじつに巨大な、情け容赦もないもの言わぬ獣〉の如くに感じられる。イエスの弟子たちですら、この〈死体〉を前にしては彼の復活を信じることはできなかっただろう、というこの思いのリアリティは動かしがたい。ドストエフスキー自身はデカブリストの妻フォンヴィージナ宛の書簡で「かりにだれかが、キリストは真理の外にあることをわたしに証明し、またキリストが真理の外にあることが実際であったとしても、わたしとしては真理とともにあるよりもキリストとともにとどまるほうが望ましいでしょう」と書いている。この言葉をそのまま読めばドストエフスキーは熱狂的なキリスト者と言える。が、この書簡でこの言葉によって完結してはいない。ドストエフスキーは「しかし同時にわたしは不信と懐疑の時代の子です」と続ける。ドストエフスキーの懐疑は深く、単純にキリストを信じきれない。ここにドストエフスキーの慟哭があり、解決を求めながらより深く懐疑の坩堝へのめり込んでいかざるを得なかった魂の悲劇的ディオニュソス性がある。
 志賀直哉は「私の空想美術館」(「文藝春秋」昭和三十三年四月号)の中で次のように書いている。
  ミラノのブレラ美術館にある、アンドレーア・マンテニヤ(一四三一~一五0六)の「キリストの納棺」の繪は複製版畫では青年の頃からよく知つてゐたが、何んだかグロテスクで、キリストの顔にも崇高な所がなく厭やな繪だと思つてゐた。
  七八年前、歐羅巴に行く時、誰れであつたか、ミラノでは忘れず、この繪を見るやうにと云はれ、新しい好奇心を持つて見に行つたが、實にいい繪で、非常に感動した。私が歐羅巴で見た最もいい繪の五指を屈する中に入れるべき繪だと思つた。
  この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である。畫面の隅で泣いてゐる年寄つた母マリヤは、これまた大工ヨセフのおかみさんだ。死骸の顎の骨が張って、喉佛の出た顔は通俗な意味では決して上品な顔ではない。何年かの苦難に滿ちた生涯をそのまま、こけた頬や眉間の皺に現はしてゐるが、それも過ぎ去つた事で、今は只の死骸として横たはつてゐる前へ投げ出された無骨な足は明らかに勞働者の足である。大釘を抜かれた兩手兩足の傷跡はさういふ傷が或る時日を經て、血も出なくなつた状態を不思議な迫眞力を以つて描いている。
  縦、二尺二寸五分、横、二尺六寸七分の小さな畫面に殆ど等身大の死體を少しも缺ける所なく、足を手前に、向うに眞直ぐに寝てゐるところが描いてある。この大膽な構圖は非常に冒險的な且つ野心的なものと云つていい。この不恰好な大きな足は、厭やでも見ないわけにはゆかないやうに描いてある。そして左上隅の僅かな場所に母マリヤともう一人の人物が描いてある。このマリヤは和解時は美しかつたかも知れないと思はれるやうな五十餘りの女で、息子の非業の死を悲しんでゐる表情は自然に見る者の涙を誘ふ。私はもう少しで貰ひ泣きをしさうになつた。ハンケチで涙を拭ふマリヤの手は矢張り田舎女の男のやうな大きな手である。
  マンテニヤはどういふ氣持でかういふ繪を描いたか。寫實に徹したといふ事までは分るが、それ以上の事は分らない。然し、兎に角、偶像破壊の意圖を以つて、かういふキリストを描いたのでない事は確かである。上眼使ひをして、兩手の指先を輕く合はせた美男のキリストを澤山見て來た私はこの繪を見て、かういふイエス・キリストならば嘗つて此世に實際にゐただらうと思つた。神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリストといふのは正に此人だと思つた。
  複製版畫では本統の色は分らない。
  複製では眞黒に見えるバックも緑がかつた淡い色で、見てゐて何か静かな氣持に誘ひ込まれる。色からいつても、これは實に美しい繪として頭に殘つてゐる。
  この文章を書く為に此の繪の複版畫を手元に置いて見てゐるうちに私はキリストの顔を段々立派な顔だと思ふやうになつた。(91~93)

 これを書いた昭和三十三年に志賀直哉は七十五歳である。内村鑑三の元を離れて実に五十年の歳月が流れている。志賀直哉はこのマンテーニャの「キリストの納棺」を「青年の頃からよく知つてゐた」と書いている。しかしその頃彼はまだ、この絵にグロテスクしか感じなかった。それは逆に言えば、青年期の彼がキリストに対して崇高な思いを抱いていたことの証でもある。ところが七十五歳になった志賀直哉は「この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である」「イエス・キリストといふのは正に此人だと思つた」と書き、かつてグロテスクに感じて厭たと思っていたマンテーニャ描く所のキリストの顔を立派な顔だと思うようになる。
 ドストエフスキーはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前にして異様に興奮する。傍らにいた妻のアンナは夫がてんかん発作を起こすのではないかと心配したほどである。ドストエフスキーがどのように「死せるキリスト」を見たか。それは先に引用したようにイッポリートの弁明の中で披露された。十字架から下ろされたばかりの生々しいキリストの死体、この死体の復活を信じられる者はいるのか。弟子も、使徒たちも、そして後に深くキリストを愛し信じた者たちも、もしこの死体を眼前にしたら、誰一人としてキリストの復活を信じることはできなかったであろう。これが余命二週間の少年が抱いた率直な感想である。この感想がそのままドストエフスキーの感想でなかったことは明白であるとしても、しかしこういった思いが拭いがたく存在したことも確かである。
 ドストエフスキーの信仰が一筋縄でいかないのは、彼の場合、神に対する〈不信と懐疑〉が大いなる信仰の前提になっていることである。『悪霊』のフェージカは二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに金で雇われた殺人者であるが、この殺人者の中にも信仰心は熱く息づいている。ソーニャは淫売婦であってキリスト者、マルメラードフはわが子ソーニャを閣下イヴァンに売り渡すようなロクデナシのアル中だが、この彼が誰よりも深く切なくキリストを求めている。イッポリートもまた「死せるキリスト」の復活を誰よりも願っていた存在と言っていい。イッポリートがムイシュキンに求めていたのは、イエス・キリストの言葉「わたしが命であり、復活である」という、その言葉であったはずである。しかし、ドストエフスキーは〈真実美しい人間の具現化〉であったはずのムイシュキンを、白痴へと追いやってしまった。ドストエフスキーの信仰は深く懐疑的である。彼の信仰は不信と懐疑の坩堝のただ中に生きている。
 ドストエフスキーの文学はポリフォニック的でありディオニュソス的である。志賀直哉の文学はモノローグ的でありアポロン的である。志賀直哉の小説を読んでカオスの沼に落ち込んだような感覚を抱くことはない。たとえカオスを感じてもドストエフスキーのそれとは比べものにならない。〈イエス・キリストの遺骸〉を見て、イッポリートが覚えたような悩ましい不信と懐疑に落ち込むことはない。志賀直哉の反応は素朴である。〈グロテスク〉で〈厭やな繪〉。これでマンテーニャの〈キリスト〉は容赦無く拒まれてしまう。なんでグロテスクに感じるのか、なんで厭やと感じるのか、崇高とは何か、このキリストの遺骸は本当に復活するのか、・・志賀直哉はドストエフスキーの人物であれば執拗に問い詰めていったであろうことを、何一つ自らに問おうとはしない。志賀直哉は〈姦淫の罪〉に対しては立ち止まって懐疑したが、その他多くのキリスト教の教義に関しては無関心を装っている。彼は〈姦淫〉を〈罪〉と思わず、キリストの復活を信じていなかったことはほぼ間違いないであろう。もし彼が罪を罪と思い、キリストの復活を信じていたなら内村鑑三の元を離れることはなかったであろうし、離れたとしてもキリスト者であることを止めはしなかったであろう。
 ところで、わたしは志賀直哉のこの文章をすべて写し取って、静かな感動を覚えている。〈罪〉とか〈復活〉とか、そんなことではない。うるさい神学上の議論などどうでもいい。志賀直哉はマンテーニャの「キリストの納棺」を見て、そこに描かれたキリスト、「今は只の死骸として横たはつてゐる」キリストに魅せられる。「不思議な迫眞力を以つて描いてゐる」とは、この絵が志賀直哉の魂を鷲掴みにしたということである。キリストの顔は、顎の骨が張って喉佛が出ている、決して上品ではない。前へ投げ出された無骨な足は労働者の不恰好な大きな足で、お世辞にも美しいとは言えない。しかし、志賀直哉はかつて若い頃にグロテスクと感じたものに、今は何よりも美しいものを感じている。〈上品な顔ではない〉マンテーニャのキリストの顔が、〈美男のキリスト〉をはるかに超えて〈立派な顔〉に見えてくる。
 志賀直哉にイッポリートの不信と懐疑はない。マンテーニャの描くキリストの遺骸が復活するだろうか、などという疑問にとらわれることがない。志賀直哉は「神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリスト」という〈人〉の〈遺骸〉をただ見つめ、深い感動を味わっている。
換言するなら、志賀直哉はイッポリートなどよりはるかに信仰の実質に触れている。彼は信仰上の七面倒な論議に加わろうとしない。マンテーニャはどういう気持ちでこのキリストを描いたのか、彼は素朴な疑問の前に佇むだけである。彼はマンテーニャが「寫實に徹した」と考えるが、しかしそこに「偶像破壊の意圖」がなかったことを確信している。この〈寫實〉のキリストの遺骸に感動し、そのキリストの顔が立派に見える志賀直哉は、キリスト者以上のキリスト者と言えなくもない。これは逆説的に言っているのではない。志賀直哉は内村鑑三のキリスト教に納得がいかずに彼の元を離れたが、キリスト教に対する直哉自身の思いは持続していたと見た方がいいように思う。
 信仰と美は一致するのか、美は信仰を内包するのか。それとも信仰が美を内包するのか。たとえ志賀直哉がキリストの〈復活〉を信じず、キリスト教的に〈罪〉と〈罰〉を信じなくても、今、マンテーニャのキリストに感動しているその事実に変わりはない。マンテーニャの〈寫實〉のキリストを立派に感じる志賀直哉は、キリストを神の一人子として認め、キリストの永遠の命であることを認めたのであろうか。それとも志賀直哉は人間キリストに〈美〉を感じて感動した、その地点にあくまでもとどまっていたのであろうか。ドストエフスキーは不信と懐疑の坩堝に身を投じ、信仰のディオニュソス性を作品に投影させた。が、志賀直哉においては不信も懐疑もアポロン的である。マンテーニャのキリストもまた志賀直哉の内でアポロン的な整合性のある美へと昇華される。志賀直哉がキリストの〈美〉を受け入れたことは確かだ、しかしその〈美〉のうちに〈信仰〉(キリストを神と認めること)が含まれていたかどうかが問題である。

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