『城の崎にて』を読む(7)

清水正の志賀直哉論

〈死に対する親しみ〉を持った眼差しでなければ、静謐な時の諸相を写し取ることはできない。蜂が「細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ」その〈ぶーん〉という羽音は、〈音〉ではなく静謐な時の効果音なのである。彼は〈死〉に匹敵するこの世の〈無音〉の事象を写し取っている。
  或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日程そのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。(25~26)
 彼は或る朝、一疋の蜂が死んでいるのを見つける。彼の眼差しは蜂の死(死骸)のあるがままを姿を映し出す。彼は〈死〉に対する一言のコメントも発しない。この蜂はどうして死んだのか、争いがあったのか、事故なのか、寿命なのか、それにしてもなぜこの世に生まれたものは死ななければならないのか、死んだらどうなるのか、この死んでしまった蜂の仲間たちはこの死をどのように見ているのか……彼は何一つコメントしない。読者は彼の眼差し(カメラ)がとらえた蜂の死の現実を見せられるだけである。換言すれば、読者もまた彼の眼差しと一体化して〈蜂の死〉の現実を見据えることになる。
 「他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった」・・蜂は仲間の死に対して冷淡なのであろうか。それとも彼の眼差しに冷淡と写っただけなのであろうか。生きている蜂の、死んだ蜂に対する〈冷淡〉を彼は責めているのではない。そこに〈悲しみ〉はなく、〈祈り〉はない。ましてや生きている蜂たちが死んだ蜂の復活など信じている様子は全く見えない。もしかしたら彼は蜂の〈冷淡〉に自分自身の〈冷淡〉を重ねていたのかもしれない。〈冷淡〉は愛憎を超えている。〈冷淡〉は自然そのものであり、〈自然の摂理〉に合致した感情とも言える。大袈裟に換言すれば、彼の眼差しは終始、どのような事があろうとも沈黙し続ける神の眼差しに重なっているということである。
 

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