『城の崎にて』を読む(3)

清水正の志賀直哉論

自分〉という一人称主体が消失している場面においては、彼は自然の事物そのものと溶化していると言ってもよい。小さな潭にたくさん集まっている〈山女〉、石のように凝っとしている〈川蟹〉・・と〈自分〉は別ものではない。〈自分〉が〈山女〉や〈沢蟹〉を見つめているのではない。〈自分〉は〈山女〉や〈沢蟹〉と同じ地平にある。「小さい流れについて少しずつ登りになった路」を散歩する〈自分〉と「山の裾を廻っているあたりの小さな潭になったなった所」に集まっている〈山女〉は、大きな自然の中に生息する生き物として同等である。「石のように凝然としている」〈川蟹〉も、「一人きりで誰も話相手はない」〈自分〉と同じような存在としてとらえられている。換言すれば、〈山女〉も〈川蟹〉も他者としてではなく、〈自分〉の一部としてとらえられている。〈山女〉は〈山女〉、〈川蟹〉は〈川蟹〉であるが、同時にそれらは〈自分〉なのである。
 
静かだ。彼は「冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く」。冷々とした夕方〉〈淋しい秋の山峡〉〈小さい清い流れ〉・・文章を分解してみると、彼が今、どのような心境にあるのかがよりはっきりとする。人生の黄昏時・・山手線の電車に跳飛ばされ九死に一生を得た彼は、未だ年齢的には三十歳前半の若さにもかかわらず、実に死と親和性を持った晩年の心境を生きている。〈小さい清い流れ〉は彼が一途に求めた人生の真実の隠喩となっている。この清い流れを遡って〈小さい潭〉に集まった〈山女〉は〈自分〉であり、そしてその場に〈石〉のように凝っとしている〈川蟹〉も〈自分〉である。〈石〉とは〈死〉、および〈死〉に限りなく近づいたものの隠喩である。が、〈足に毛の生えた大きな川蟹〉には旺盛な生命力を感じる。この〈川蟹〉は〈石〉のように凝っとしているが、その内に限りない生命力を湛えている。大いなる生命力の保持がそのまま〈死〉の静かさを獲得している。女性的存在である〈山女〉が集まった〈小さな潭〉の底に、この父性的な〈足に毛の生えた大きな川蟹〉が〈石〉のように凝っとしているという、その構図がまことに暗示的で面白い。「足に毛の生えた」という形容に性的なイメージを抱くのはわたしだけではなかろう。この〈川蟹〉には大いなる父性的エロスを感じる。〈小さな潭〉の底にこの〈大きな川蟹〉を発見する彼は、〈冷々とした夕方〉(比喩的には人生の黄昏時)にあっても、実は旺盛な生命力を潜めている。
 彼が散歩していたのは、象徴的な文脈で解すれば〈膣〉(小さい流れ)を通って〈母胎〉(小さな潭)へと到るコースである。人が母胎回帰の願望に捕らわれるのは精神的にも身体的にも追い詰められた時である。窮地に追い込まれた人間は、苦しい現実を回避して至福の時空(母胎)へと回帰しようと図る。しかし母胎回帰の願望はそう簡単には進まない。母胎回帰を実現するためには、母の伴侶である〈父〉を始末しなければならない。〈父〉との戦いに勝利しなければ母胎回帰は挫折するのである。先にわたしは、〈川蟹〉は彼を意味する〈自分〉でもあると指摘したが、さらにこの〈川蟹〉は彼が戦い勝利を収めなければならない〈父性的存在〉の隠喩ともとれる。つまり〈川蟹〉は〈自分〉でもあり
〈父〉でもある。

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