『城の崎にて』を読む(2)

清水正の志賀直哉論

ところで主語がないのはどういうことを意味しているのだろうか。一人称主体は英語ではアイ、フランス語ではジュ、ドイツ語ではイッヒ、ロシア語ではヤーである。要するに一人称主体はただ一つの言葉で表現される。ところが日本語においては〈わたくし〉〈わたし〉〈あたい〉〈おれ〉〈おいら〉〈わがはい〉〈ぼく〉〈じぶん〉〈われ〉などと発音し、それは漢字、平仮名、片仮名で表記される。なぜ日本語は複数の一人称表記があるのか。唯一神を信仰する者たちにとって、一人称主体はまずは〈神〉に対してある。ところが日本人の大半は八百万の神々を信仰する民族であり、一人称主体は絶対的な〈唯一神〉に向かってはいない。日本人は要するに自分が関わる他人との関係において一人称の表現を変える。女性は〈わたし〉および〈あたし〉など限定された主体表現にとどまるが、男性の場合は〈わたくし〉〈ぼく〉〈おれ〉など、関わる他者との関係や場所によって変える。取引先の相手や上梓に対しては〈わたくし〉〈わたし〉、友人や同僚や対しては〈ぼく〉〈おれ〉、くだけた宴会の席などにおいては〈ぼく〉〈おれ〉というように、日本人の男性が一人称表現をただ一つに限定していることは極めて稀である。西洋が〈罪〉の文化、日本が〈恥〉の文化と言われるのも、前者が〈唯一神〉を、後者が〈他人〉を意識していることによる。日本においてテレビが急速に普及したのはプロレスラー力道山の活躍と、テレビにアンテナがついていたことにあると言われている。シャープ兄弟という白人の大男二人を最後の最後に空手チョップで叩きのめす力道山の雄姿は、アメリカに戦争で負けた日本人の大いなる憂さ晴らしになった。敗戦後、テレビの前でプロレス観戦していたすべての日本人が力道山の空手チョップに熱狂的な喝采を送ったし、その空手チョップを観たいがためにテレビを購入したのである。テレビを購入した家の屋根には誇らしげにアンテナが立てられ、それを見た近所の人々は購買欲を刺激されたのである。かくのごとく、日本人は不断に近所の人や世間の目を意識しながら、なるべく恥をかかないようにと生きている。
 
ここに引用した志賀直哉の文章に主語がないということは、彼が〈唯一神〉も〈他存在〉も一向に気にしていなかったことを示している。このことを念頭に起きながら次の叙述を見てみよう。
  一人きりで誰も話相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。(24)
 ここで初めて一人称主体〈自分は〉が現れる。志賀直哉が一人称主体を〈私〉とか〈僕〉〈俺〉ではなく〈自分〉と表記していることに注意したい。先ほど指摘したように、日本人男性の多くは一人称主体を相手や場所によって使い分ける。ここで手記の主体が一人称主体を〈自分〉と表記しているのは、彼が世間や場所を配慮していないことを示している。志賀直哉も、志賀直哉の描く主人公も、元来きわめて我儘な性格でひとのことなどはじめから配慮しない傾向があるが、この作品の〈主人公=手記の主体〉もまたその例外ではない。彼が興味を持っているのは〈自分〉のことであり、〈自分〉を他者がどう思っているかなどということには全く関心がない。
 彼は後養生のため但馬の温泉宿でただ一人、本を読んだり書いたりしているのであるから、とうぜん他人のことなど気にする必要はない。なにしろ彼は、経済的に恵まれた家のお坊ちゃんであるから、宿賃の心配などしなくていいし、他人の心を詮索する必要もない。ただただ自分自身と向き合って、贅沢過ぎる孤独を味わっていればいいのである。人との関係を絶ってしまえば、他人との関係において決定される一人称主体(〈私〉や〈僕〉や〈俺〉など)も必要がない。彼は自分自身と向き合う生活をしているのであるから、そこで自然に一人称主体は〈自分〉となったのである。

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