アンモナイトは何故丸いか?

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(大森政秀「ギリギリス」)
【栗原隆浩】
2004年7月2日、「日本文学特論」(清水正教授担当)の課外授業において、私は初めて、舞踏の世界を実体験した。舞踏鑑賞は、私にとって長年来の念願であり、これまで漠然としたイメージのみで捉えてきた舞踏というものの実際を、今回肌で感じたことになる。
 私がかつて思い浮かべてきた、舞踏とは何であったのか。そして舞踏の実際と照らし合わせた場合、そのイメージと何が共通し、何が掛け離れていたのか、舞踏についての専門的知識のない人間として、今回、私個人に由来する、自己と舞踏との関わりという観点から、舞踏を掘り下げていきたい。 
 
 
私が舞踏というものの存在を知ったのは、高校時代に遡る。当時、アングラな臭いを漂わせる表現作品に関心を抱いていた私は、偶然書店で手にした映画の本の中に、「土方巽と暗黒舞踏団」と題された古いスチール写真を発見する。そこには、映画中のワンシーンとおぼしき場面で、人とも獣ともつかぬ、佇むひとりの男と、彼をとりまく異様な井出達の男女が、陰鬱な雰囲気を醸し出し、映し出されていた。
 悪夢の一場面を切り出したようなそのスチール写真は“土方巽・暗黒舞踏団”という物々しい響きとともに、私に憧憬とも畏怖ともつかぬ感情を呼び覚ました。それは誇張を伴ったまま、私の内部に沈殿していった。
 
 高校時代までの私を支配していたものは、実に「空想」に他ならなかった。自分が理性の上で納得できない物事は一切やらない(厳密には“やれない”)子供であった私は、自身が取り組むべき価値を見出せない行為に労を費やすはずもなく、結果として、同年代の子供が何の疑問も挟まずに行えた事柄の多くをすることが出来なかった。むしろ、常識的観点からすれば、疑問を挟むことがナンセンスだとされる価値をどこかで小馬鹿にし、解釈が幾通りにもなる、死や神と言った抽象的なものに関する思索や、自身も見たことがないアングラ作品の内容の思案に、進んで時間を割いた。
 
 私が現在研究している幻想漫画家、日野日出志に関しても、初めて目を通した小学生当時、私はそれらの作品に、周囲の友人達が欲していたような、スリルや恐怖を求めていた訳ではなかった。私は「悲劇」を捜していた。それも、悲劇が不条理で、悲劇の形が不可解であればあるほど、私の胸を打った。
「舞踏」「日野日出志」「見世物小屋」奇しくも幼いころ無意識に惹かれ、現在私の研究テーマとなっているこれら対象には、ある共通項がある。それは、役者と観客、事実と虚構、彼岸と此岸・・。相反するものを隔てる、現代においては、人々の認識の上では自明とされる価値基準として機能する、「境界」が曖昧で、それゆえに見る者に、神人混合・人獣混合を感じさせる点である。
 
 幼いころ私は、学校生活に付随する常識に照らし合わせれば意味不明で、それゆえに往々にして忌諱されるが、価値判断を鑑賞者に委ね、想像する余地を残した形式の表現作品だけが、私という存在を許容してくれるのだと、自覚ではなく、直感として知り得ていた。現実の上では、単なる木偶の坊に過ぎなかった私は、「土方巽と暗黒舞踏団」という、異様な姿をした者たちが映し出された一枚のスチール写真の中に、親近感と安息とを見出していた。それが、現在において、私が芸術に対して投げかける視線の、礎となったことは明白だ。
 
 公演終了後、今回同席された窪田尚先生に、私は以下の質問を投げかけてみた。
「先生は、舞踏に関する予備知識に照らし合わせてご覧になったんですか」窪田先生は首を横に振られた。
「そんな見方をしたらちっとも楽しくないよ。舞踏は、役者と客が、時間と空間を共有して楽しむものだよ」
 
 顔をドーランで白塗りにし、虚ろな目をした大森政秀氏が、客席をまたぎ、鼻息もかからんばかりに私の目前に接近してきた時、息苦しさと眩暈に襲われた感覚が甦る。氏が、巨大なアンモナイトの模型に頬擦りし、舌を這わせるシーンを分析して、私なりの解釈を当てはめることも可能だろう。だが、私の内部には、目の前で行われていることに対する言い知れぬ不安感と、「舞い、踏む」とも呼べぬこの一連の「出来事」に立ち合ったことへの疲労感が残ったのが事実である。
 しかし、時間が経つにつれ、私は、誰もが何気なく口にする“芸術鑑賞”という行為の、不確かさと拠り所のなさを考えるに及んだ。芸術作品を鑑賞する際、近年の私は、作品と、時間・空間を共有するというよりも、むしろその作品が一体何であるか、何と呼ばれるものであるかを把握し、征服しようと躍起になっていたことに思い至る。この場合、鑑賞者が最終的に帰結しようとしている到達点は、類推や分類に近い。それら行為は無論、全否定されるべき要素ではない。だが、そのアプローチでは、美術館や舞台といった、ライブで芸術表現を鑑賞する意義は、限りなく希薄にならざるを得ない。
 
 舞踏とは何であるのか。舞踏だけが、鑑賞者に問い掛け得るものがあるとすれば、それは決してビデオや本のみでは伝わりきらない。そして舞踏の鑑賞は、本来、舞踏関係者やマニアだけでなく、仕事帰りのサラリーマンや主婦、学生が見ても何ら遜色のないもののはずである。アンモナイトは何故丸い、という命題に思いを馳せ、結論を出すことは、我々ひとりひとりに課せられた義務であり特権だということ、そして舞踏の世界を構成する重要な要素、緻密な舞台装置と演出によって、我々は舞踏家と、時間と空間を共有できるのであった。

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