チェーホフの『退屈な話』を授業する(2)

清水正のチェーホフ論

……彼女の顔を眺めているうちに、わが輩は自分が彼女よりも仕合せなのが恥かしくなる。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!
 「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩が言う。
 「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
  また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
 「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩が言う。ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」
 「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
 「どこへ?」
 「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
 「そう。長くいるのかね?」
 「わかりませんわ。」
  カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
  いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいていった。……さらば、わが宝よ!
 
どうですか、この別離の場面は胸をキュンとさせますネ。それにしてもあと何ヵ月かで死ぬ運命にあるニコライ・ステパーノヴィチが、カーチャの顔を眺めながら、自分のほうが仕合わせだと感じるというのはどうでしょうかネ。いったいカーチャは何を望んでいたんでしょう、そして今、何に絶望しているんでしょうか。カーチャはすべてを捨て、ニコライ・ステパーノヴィチ一人に望みをかけてハリコフまでやってきた。カーチャは「助けてください!」「もう生きていけないのです!」とまで言っていた。しかし老教授は「カーチャ、朝御飯を食べよう」としか言えない。まるで安っぽいカルカチュア小説みたいじゃないですか。三等官の名誉教授たる者が、救いを求めて自分のところにやって来た者にこんな言葉しか発することができないなんて……。全く絶句もんですヨ。しかもカーチャは〈わが宝〉ですヨ、〈わが宝〉。
 そうです、ニコライ・ステパーノヴィチはだからこそ自分が本当に納得していない言葉を発することができなかった。「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」この言葉に嘘偽りはない。わからないものはわからないとしか言いようがない。嘘をつくのは容易だ、が老教授はそんな容易な薄っぺらな言葉をカーチャにはきたくなかった。彼は誠実なんですネ。まず自分の心に誠実です。もう死しか待っていないというのに、今さら嘘なんてついたって仕方ないですからネ。しかしこの誠実は、激しく求める女には何の足しにもならない。女は男の誠実なんかより、情熱的な嘘を求めたいことだってあるわけです。しかしこのニコライ・ステパーノヴィチという男、ついに〈わが宝〉をわが胸に抱きとめることができなかった……。
 カーチャは去って行く、もう二度と再びニコライ・ステパーノヴィチの方を振り向いたりしない。カーチャは〈クリミア〉へ、つまり〈コーカサス〉へ行くと言います。いったいどこですか〈コーカサス〉って。どんな間抜けな読者だってそこがカーチャの新天地であり、幸福を約束する土地だなんて思わないでしょう。チェーホフは「黒い服がちらりとひらめいた」と書いている。実にさりげない書き方で、鈍感な読者は何も気づかないかもしれないが、要するにこの〈黒い服〉はカーチャの〈死〉を暗示している。死ぬのはニコライ・ステパーノヴィチばかりではないんです。カーチャは自分の死を覚悟してやってきたんですヨ、ハリコフまでネ。彼女にしてみれば最も愛するニコライ・ステパーノヴィチと愛を確認して一緒に死にたかったでしょう。だからこそニコライ・ステパーノヴィチが「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ」と言った時にも、そのことにはひと言もふれずに「わたしはどうしたらいいのです?」としつこく訊き返したんです。カーチャは彼からたったひと言、愛の証の言葉がほしかった。なのに老教授の返事は「わからない」ですからネ。
 カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの間に結ばれていた〈絆〉はここで断ち切られます。絆を断ち切ったのはカーチャです。もうこうなったら女は泣きません。カーチャはたった一人で〈死〉の荒野へと去っていきます。カーチャが曲り角をまがったその前方に広がっているのははてしのない荒野です、どうですか、見えますかタクサガワノヴィチ、その寒々とした荒野が……。カーチャに吹いてくる絶望の風を感じることができなければこの『退屈な話』を読んだことにならないヨ。
 ニコライ・ステパーノヴィチが〈わが宝〉を失った孤独、その孤独よりも壮絶な孤独、それがニコライ・ステパーノヴィチの愛を得ることのできなかったカーチャの孤独ですネ。わたしは『退屈な話』の中で書きましたよ、〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチのその孤独の姿を眼の前にして「どうでもいい」、ロシア語でフショー・ラヴノー(Всё равно)ですが、そう言えるのかってネ。
 『六号室』に出てくるラーギン医師は「どうでもいい」というのが口癖のような男なんですがネ。確かにチェーホフの文学の基底にはこのВсё равноという気分が絶え間なく流れている。倦怠、アンニュイですネ、何にも期待しない、どうでもいい、この頽廃的な虚無の感覚がある。気だるい感じですネ。まあ、わたしのなかにもこういった気分、感覚はいつもつきまとっている。いま、こういう風に授業で大きな声を出して情熱的にしゃべっていても、実はかなり覚めていて、虚無的なけだるい感じがあるんですヨ。
 タクサガワノヴィチ、どうですかネ、こういった「どうでもいい」という感じは若い時にもあるでしょう、わたしは十代の後半からこういった感覚がありましたネ。それ以来、ずっとあるわけです。
 あっ、ちょっと待って下さい、今、風邪気味で鼻がつまっているんでトイレではなをかんできますから。
 〔一分後〕
 ええと、あと何分ありますか、七分、それじゃもう少し話ましょう。マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』という映画があります。監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ。観たことのあるひとどれくらいいますか。えっ、ひとりもいない。芸術学部の学生がこんな有名な映画を観ていないなんて恥ですヨ、恥。この映画にはもうおしまいになってしまったような人間が三人登場します。一人はディートリッヒ演ずる歌姫エーミイ・ジョリイですネ、この女、おそらく失恋して、もう二度と恋などできない、といったかなりクールで妖しい雰囲気を漂わせています。この女がアフリカのモロッコ行きの汽船に乗船しています。デッキで遠くを眺めるような眼差しで煙草をくゆらしてる場面などはかなりきまっています。そうそう、チェーホフは『ともしび』という作品の中で鉄道の施設工事に係わっているアナニエフ技師が、昔、ものにしようとした或る魅惑的な女について「まるで、海も、遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって」云々と書いているんですが、まさにそういった感じです。
 この歌姫エーミイに接近して来たのがプレイボーーイ風の金持ちラ・ベシエールです。だいたいプレイボーイというのは一人の女を愛しきれない、質ではなく量でこなそうとする男です。ですからベシエールにしてみれば、エーミイもまた束の間の、恋愛遊戯の相手として接近してきたわけです。ところが、この名うてのプレイボーイがどういうわけかエーミイの魅惑の虜になってプロボーズまですることになる。まあ、プレイボーイとしては失格なわけですが、どういうわけか一度終わってしまったような人間は、同じように終わ
ってしまった人間に惹かれるもんなんですネ。恋は~不思議ね~、消えた~はずの~灰のなかから~なぜに燃える~ということですヨ。燃え尽きた灰の中から、どういうわけか再び恋の炎が燃え上がるというわけだ。ね、分かるでしょう、タクサガワノヴィチ!
 さてもう一人、おしまいになった男がいます。これがゲイリイ・クーパー演ずるところの外人部隊に所属する兵士トム・ブラウンです。まあこの男も外人部隊に所属する雇われ兵士ということで、命なんぞいつでもくれてやらあぐらいの気持で生きている。まあ、この男も陽気な女好きのプレイボーイで、たった一人の女に血道をあげるような男じゃない。この二人が最初に出会うのが兵士相手のキャバレーで、この時のエーミイの歌はなかなか魅惑的です。海千山千のプレイボーイの心を引っつかんで話さないような引力がありますネ。まあ、男と女の決定的な出会いというのは瞬間で決まります。何日も何ヵ月もつきあって燃えるなんてもんじゃない。宿命的な恋はすべて瞬間です。瞬間で燃え上がる。しかしガキの恋じゃないヨ、いいねシンタロウ君。
 さっき言ったように彼らはすでに一度終わっているんだ、生きている舞台から、生きながらにして下りてしまっているんだ。なぜエーミイがアフリカのモロッコくんだりまで来たのか、なぜトム・ブラウンはいつ殺されるか分からない外人部隊に入隊したのか、ということだ。一度、人生に幕を下ろしているから、あとは野となれ山となれ、というやけっぱちがある。諦めがある。そのやけっぱちや諦めを露骨に出したら、品がないネ。やけっぱちにも品がないとダメなんだ。エーミイを演ずるのがマレーネ・デートリッヒで、トム・ブラウンはゲイリイ・クーパーが演じなければ、やはり『モロッコ』は名作にならないんだナ。プレイボーイのラ・ベシエールもそうだネ、この役を演じた男優は実によかった。プレイボーイはこういう顔をしていなきゃいけない、つまり観ている者を納得させてしまう演技だった。
 さて、ここで『モロッコ』論を長々と続けるわけにはいかないから先を急ごう。わたしが言いたいのは、この映画の最終場面だ。トムはエーミイを愛してしまう。エーミイはラ・ベシエールに求婚される。エーミイはもちろん二人の男に強く愛されていることを知っている。が、迷いもある。すでに一度、なにもかも捨てて辺境の地モロッコに自分の骨を埋めるような気持でやって来た歌姫が、今さら激しい恋におちることなど想像すらしていなかっただろう。
 が、生きている限り、予想のつかないことは起きるもんです。エーミイはトム・ブラウンかラ・ベシエールか、二者択一の前にたって迷います。なにも迷うことなんかないのにと思う観客もいるでしょうネ。なにしろトム・ブラウンを演ずるのがゲイリイ・クーパーですから。しかし女はいつでも複数の男に激しく求められれば迷うのです。そうそう、『アンナ・カレーニナ』のキチイがヴロンスキーとリョーヴィンに迷ったと同じようにネ。そんなもんですヨ、ね、タクサガワノヴィチ。

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