野沢尚氏の講演記録(9)

追悼:野沢尚

要するに脚本の中でどんな美しい文章を書いても、それは映像化とはもちろん別だし、どういう風に変わるかも分からない。例えば晴れの日を想定して、ギラギラした夏の陽光の下で、飢えた猟犬のような目をした男がいるというト書きを書いたとしても、撮影日に雨だったとしたら、特にテレビの場合は雨で撮影するしかない。ギラギラした陽光なんてどこにもない。そうしたら、そんなト書きのどこに意味があるんだろうって。やっぱり脚本というのは、美しい文章を必要としていないんだ。美しい文章で人を感動させようと思ったら、小説に行くしかないという風にそのとき一番気づいたんですよね。
 
まあ、これが大体、『さらば愛しのやくざ』と『その男、凶暴につき』の顛末で、何が言いたいかと言いますと、ひとりでは完結しない仕事であると。人と人との中で、本当に奮闘して、言葉を尽くして人を説得して、そのためにはすごい理論武装をして立ち向かっていかないといけない仕事だと。そして、どこかで柔軟性を持っていないと、ダメな仕事なんだということなんです。それは新人だけで、四十や五十のベテランだから全部思い通りに行くんじゃないかと言うと、全然そんなことはなくて。
 これもつい最近あったエピソードなんですけれども、今ちょうどNHKで『緋色の記憶』というテレビドラマを放送中で、あと二回やるんですけれども、鈴木京香が主演で、倍賞美津子さんや、岸辺一徳さんが出ているドラマで、これももちろん最終回までできているんですけれども、ちょっとトラブルがあって。話は夏八木勲さん扮する主人公が故郷に帰って、四十年前の殺人がらみの事件を思い返すという話なんですね。で、事件が全部終わって、最後に故郷から旅立つときに、「私の長い旅はこれで終わった」と。夏八木さんというのは色んな原罪を抱えている男なんですけれども、第一回のファーストシーンで、この男が病院で組織検査を受けていて、どうやらこの男はガンらしいと。それで自分の親友の医者に、「もし自分がガンだったなら、告知をしてくれ」と言い残して故郷に旅立つんですね。これを作ったときに、最後は絶対にナレーションで「私の長い旅はこれで終わった」と。それで東京に帰ったら、末期ガンだったと医者は正直に告げてくれたというナレーションの入るエンディングを絶対に入れたくて、そういう形でドラマにも一応なったんですけれども、試写を観たNHKのプロデューサーが、「非常に後味が悪い」と言うんですね。末期ガンで死んでしまうという、そこまで言わなくてもいいんじゃないかと。だから消したいと言ってきたわけです。これに僕は非常に抵抗しまして、これがなければ、この主人公がガンで死ぬということは誰にも分からないじゃないかと。確かに冒頭で検査に行ったというシーンはあるけれども、そんなこと客は覚えちゃいないと。絶対に最後にナレーションで流さなければダメなんだということを言ったんですね。そこでもうひとつ、テレビドラマにおける後味って何なんですかって僕は聞いたんですね。後味が良ければいいのかと。
 後味が悪いっていうのも実は大事なんじゃないかと言ったんですけれども、そこで実例を挙げたのは、『眠れる森』というドラマをやったときに、皆さんの中でも観た人は大勢いらっしゃると思いますけれども、木村拓哉くんがコテッと死ぬんですよね。これは見ていると、本当に死んだかどうだか分からない。未だにいろんな人に、あれは死んだんですか、どうなんですか、とよく聞かれるんですけれども、非常に後味の悪いエンディングなんですね。お客を放り出しているみたいな。でも僕はそういう一種後味が悪いからこそ、人の記憶に残っていると僕は思っていて、人の間をすり抜けていくようなものを作っているわけであって、どこかで受け取ってほしいとか、覚えていてほしいというような思いがすごくあるんですよね。だからたとえ後味が悪くても、お客の頭をガツンと殴るような、そういうエンディングがあってもいいんじゃないかということを、話し合いの中でそのNHKのプロデューサーに言いました。でも向こうはやっぱり消したいということを言ってきた。それだったら最終回のタイトルから、タイトルを消してほしいと言ったんですね。つまり野沢という名前を全部消してほしいと。新聞の欄からも全部消してほしいと、それは僕が書いたエンディングじゃないから。するとそれはできないと、そんなことをしたらすごい大事件になるから。じゃあどうするかっていうことで、十五分二十分沈黙が続くんですけれども、タイトルを消してくれという最終案をもって話し合いに臨んだんですけれども、どこかで歩み寄らなければいけないという思いもあって、だったらはっきり死ぬとは言わないけれども、主人公の死を暗示するナレーションを改めて書かせてくれと。でも夏八木さんのスケジュールが取れるかどうか分からないと。つまりナレーションひとつ録るにしても、夏八木さんを引っ張ってきて録らなきゃいけないわけで、そんなことは簡単にはできるはずはないと思ったけれども、それしかないということになって。で、ようやくその別のナレーションをつけて…どういうものかは見てのお楽しみですけれども、それで落ち着いたんですね。
 つまりいくら四・五十のベテランになったって、やはり組織の歯車でしかない。もっと悪く言うと出入り業者でしかないんですね。フリーの脚本家というのは。どこかで歩み寄って集団の歯車として機能しようと思わないとやっていけないんですよね。

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