追悼:野沢尚

野沢尚氏の講演記録(6)

実は去年の七・八月で集中的に連載の原稿を書いたんですけれども、ちょうど九月に深作さんがガンの告白をされて、非常にショックを覚えたんですけれども、書き上げた原稿をお送りしまして、読む余裕はないでしょうけれども、書類棚に置いておいてくださいと。監督と悩んだこと、正義とは何かとか、なぜ主人公が暴力刑事になったのかとか、そういう悩んだ答えを僕は出しておいたつもりなので、お手元に置いておいてくださいとお送りしたんですけれども。そういう形で何とか深作さんとは、映画脚本として結実させたかったんですけれども、まあ、そういう形になりました。
 『その男、凶暴につき』については、後ほど質問がありましたらお答えしますけれども、この仕事が終わりまして、八十九年に公開になったんですけれども、ちょうど同じ年に僕はもう一本『ラッフルズ・ホテル』という村上龍さんが監督をした映画の脚本を書いたんですね。これは僕にとっては自分のキャリアの中でも、日本映画史上の中でも、最低の映画だと思っていますが(笑)、どれほどひどいかは観てもらってもいいですが、そのひどさについては愚痴になるのでやめますが、何が言いたいかというと、八十九年というのはバブル景気の終わりぐらいで、映画界にお金が流れ込んでいた時代なんですね。いまは全然そうではないですけれども、ビルのオーナーであるとか、企業であるとか、税金でみんな持っていかれるぐらいなら文化事業をやろうというような気持ちでお金が流れ込んできて、何をもたらしたかというと、プロじゃない映画監督でも映画を撮れる時代になったんですね。村上龍さんは二本その前にやっていますけれども、小説家だし、島田伸介さんもやりましたし、色んな異業種の人たちが映画を撮れた時代だったんですね。
 それは背景として言うと、ビデオレンタル店が非常に伸びてきた時代で、あの時代ビデオレンタル店と不動産業というのは非常なつながりがあって、不動産業が景気のいいときにはレンタル店も増えて、映画もたくさん買われたりとか、そういう時代だったんですね。ですからそれが脚本家になにをもたらすかというと、プロじゃない監督と仕事をしなきゃいけない辛さということがあって、つまりたけしさんにしても龍さんにしても、悪く言えば叩き台を作ってもらって、それを元に自分流に直してやればいいというようなところがあって、プロの脚本家とがっぷり四つに組んで、旅館に入って、主人公の前歴から話し合って、キャラクターから考えるという作業をできなかったんですね。おふたりともとても忙しい人だったし、当時龍さんは『RYU’S BAR』っていうTBSの対談番組をやっていて、本当に時間がなくて、打ち合わせの時間もとれないという状況の中で、まあある程度のものは、野沢くんが書いてきてくれればいい、という形になって、脚本家にとっては不満の多い仕事になりました。
 この八十九年というのは僕にとってちょっと辛い時代だったんですけれども、その後に東映の方から『さらば愛しのやくざ』という原作があると、それを脚色してくれないかというオファーがあったんですね。東映という映画会社は、簡単にいうと自分でリスクを背負って映画を作る会社なんですね。いまでもそういうところがあるし、他の会社には少なくなっているんですけれども、つまり自分のところで全額出して、自分のところで権利を持つ、と。ところが失敗したらリスクを全部背負わなければいけないというような、そういう映画人というのが生きている、映画魂というものが生きている、何とか自分のところで映画を作りたいという、そういう気概みたいなものを持っている会社だったんですね。で、大泉の撮影所に呼ばれて行きまして、打ち合わせをしました。

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