野沢尚氏の講演記録(5)

追悼:野沢尚

映画をご覧になって、シナリオも僕が書いたものが読めますから、読み比べてみるとわかるんですけれども、ストーリーはあまり変わらないです。変わらないんですけれども、言葉を削ぎ落とした映画になっています。あとは、たけしさんのような暴力実践派の人間が作った映画だな、という風に思います。例えば自分の捕まえた売人をトイレで痛めつけるシーンがあるんですけれども、それが半端な殴り方じゃない。もう十回二十回と殴り続ける描写であるとか、これはもう観ていて生理的に耐えられないというほどのシーンでした。自分が捕まえた証人が船だまりみたいなところに逃げ込んでいると。主人公はそれに会って帰るときに、歩道橋の向こうから白竜扮する殺し屋がやって来る。観客はもちろん彼が殺し屋だと知っているんですけれども、たけしさん扮する東は知らない。で、二人がすれ違って歩いていくんですけれども、あるとき突然パッと踵を返してさっきの証人のところに走って戻ったら、もう殺されていたというような、第六感で「ああ、あいつじゃないか」と思って追いかけていくときの描写というのは、既成の映画作法が身に付いている職業監督にはない感覚なんですよね。
 
そういうものが本当に溢れていた映画で、かなり脚本が変えられていて、「あなたの思い通りになった映画ではないかもしれない」と言われながらも見に行って、たけしさんもいらして、遠くで挨拶を交わしたあと映画を観て、やっぱり面白かったです、僕は。面白かったし、それが悔しかったという思い出のある仕事ですね。
 この間、江戸川乱歩賞の高野さんという『13階段』を書いた人と対談をやったときに、『その男、凶暴につき』の話になったんですけれども、「あれは、脚本というものがあまり関係のない映画でしたね」と言われて、ちょっと反発もあったんですけれども、確かにそうだなと思いました。どういうことかというと、やっぱり先ほども言ったように、とにかく削ぎ落としていった映画なんですね。僕はどちらかというと「芸人・ビートたけし」というイメージで、饒舌なブラックユーモアを周りに撒き散らすようなキャラクターを考えていたんですが、たけしさんはとにかく徹底的に喋らない、言葉を排した主人公を作ろうと思ったみたいです。ですからあの映画の後半、とくに二十分くらいは、主人公はひとことも喋っていないという形になっているんですけれども、そういう映画を作るために色んな無駄な部分を削ぎ落としていったんですよね。
 たとえば警察機構の内部はどうなっているのかとか、ヤク中とは一体どういう人間なのかとか、もっと沢山のディテールがあったんですけれども、そういうものを排除していって、要するに記号化しているというのか、刑事や犯人や警察社会というものをある程度の枠組みで作って、そこで自分の感覚を注ぎ込むみたいな、そういう作り方をしているんですね。よくよく後の映画を観るとやっぱりファクターというのが、記号化というか単純化されている。悪く言えば、どこかで観たようなものになっている。
 例えば『HANA-BI』の女房の岸本加世子は、白血病かなにかなんだけれども、本当だったら沢山薬を抱えていて、車で主人公と一緒に旅ができるような病状じゃないはずなんだけれども、でもたけしさんの映画の中ではそれでいいんだと。刑事くずれの男が病気の妻と一緒に旅に出るという映画をやりたいから、白血病のディテールとかそんなことは関係ないんだっていうのが、あの人の作り方なんですよね。『BROTHER』なんかを観ても、外国人がよくわかるやくざという枠組みの中で自分の感覚を注ぎ込んでいるという。
 多分その出発点が『その男、凶暴につき』になっていて、未だにあの人が組んだ脚本家というのは僕ひとりだけで、即興で脚本を作っていて、クレジットにされている人も、いわゆる弟子の人だったりするらしいんですね。本当に作家と組んだというのは、あの映画だけだと思うんですけれども、まあこれは僕自身への慰めなんですけれども、たけしさんというのは、あるきちんとした脚本があって、それを壊したときになにかが生まれるという、そういう作り方をする人なんだ、と。だから自分の脚本は、決して無駄にはなっていない、という風に思っています。今でも僕は思うんですけれども、ちゃんとした脚本家と組んで、それを壊した映画を作ったときに次のステップに行けるんじゃないかなと、あの人の映画に関してはそういう風に僕は生意気ですけれども思っているんですね。
 まあちょっとこの話には後日談があって、とにかく僕はずっと深作さんと仕事がしたいという希望がずっとあって、その後にもう一回組むチャンスがあったんですね。それには『その男、凶暴につき』の主人公をひきずった主人公を出して、労働者たちの暴動によって包囲された警察署の中が舞台で、風来坊のように隣町から警官がやって来るという、その一晩のストーリーなんですけれども、クライマックスで暴動に紛れてある重要な証人を殺そうとするやくざがいるみたいなシナリオを書いて、これが映画化寸前まで行ったんですけれども、これがいまの日本映画界の非常に悲しいところなんですけれども、暴動を再現するためのオープンセットがなかなかできない、と。立川にそういう古い町並みがあったんですけれども、結局取り壊されることになってしまって、現実的に無理だということになってしまって。それで『いつかギラギラする日』っていう、丸山昇一さんが脚本を書いた萩原健一の銀行ギャングの映画も同時に進行されてて、悪く言えば両天秤をかけられた状態になっていて、結局そっちの方に行ったわけで…。
 僕は深作さんが八十八年から九十二年までの、映画がうまく撮れなかった4年間に知り合って、二本の映画を書いたんですけれども、結局それはうまく形にならなくて。二本目に書いたその暴動の話というのが、僕は非常に心残りで、脚本というものの悲しい宿命とも言えるんでしょうけど、要するに映画にならないと、ただの紙くずになってしまうんですね。小説のように発表もできないし、自分の本棚に色とりどりの改訂校・準備校が挟まれるだけのものになってしまうと。それはとっても寂しくて、やっぱり深作さんと作り上げたものを何とか世に出したいという思いで、警察小説をシナリオを元に書き上げて、一番最初の江戸川乱歩賞に出したんですね。福井晴敏に僅差で勝って入賞できたんですけれども、江戸川乱歩賞は二年やってて、その一年目にやったのがそのシナリオだったんですけれども、まだ出版されてないんですが、いつかは出したいと思っています。それと、さっき話した『その男、凶暴につき』の原型になった深作さんと作り上げたシナリオを死なせてはならないという思いがあって、ちょうど「週刊ポスト」に連載をしているんですけれども、「烈火の月」という、それを元にした小説を書いていて、半分くらい終わっていて、来年の夏に終わるんですけれども、それを読んでいただけると、映画とのストーリーは通じていますし、キャラクターもたけしさんに通じているものもあります。

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