2010
01.26

林芙美子の文学(連載169)林芙美子の『浮雲』について(167)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載169)
林芙美子の『浮雲』について(167)

(初出「D文学通信」1373号・2010年1月26日)
清水正


伊香保で正月を迎えた富岡とゆき子の日常は、それが何
の変哲もない日常として描かれているだけにリアリティがある。


伊香保で正月を迎えた富岡とゆき子の日常は、それが何の変哲もない日
常として描かれているだけにリアリティがある。遠くで鼓が鳴っている。
ゆき子はその音に眼を覚ますと、富岡は寝床にいない。鼓の音はラジオか
らのものであった。時計を見ると、十時をまわっている。火鉢に火を入れ
に来た女中が「旦那さんはお湯におはいりです」と言う。ゆき子は手拭い
を持って湯殿に行く。富岡は小さい湯に入っている。ゆき子は「はいって
いい?」と聞く。富岡は「ああ」と答える。桧の浴槽に赤い湯が溢れ、湯
気が狭い湯殿にもうもうとこもっている。
「おめでとうございます……」
ゆき子は笑いながら言った。富岡も、おめでとうと言った。淡いなが
らも、二人の親和が、裸の肌に浸みた。旅空の正月とはいっても、時間と
金が、ありあまって湯治に来ている客ではないだけに、二人には、おめで
とうと言いあいながらも、侘しく、つつましい感情が、心に流れている。
ゆき子が湯にはいると、湯はタイルの流しへ溢れた。
「おお、いいお湯だこと……」
「客は僕たちだけらしいよ」
富岡は、そう言って、ざあっと流しへ上って行った。肌が赧くなって
いる。浴槽の中は明るかった。湯はちらと、富岡の裸体から眼を外らして
窓にせまっている赤土の肌を眺めていた。
「ねえ……」
「何だ?」
「私たち何だか、落着いちゃったわね。でも、女中は、不思議な男と女
と思ってるでしょうね。外へも出ないし、あまり、金もなさそうだし、そ
のくせ、悠々としてて、じめついてないし……。でも、ずいぶん、親切な
家ね……」
「うん、そうだね……」
「そうだねって、あなた、何か考えているの? やっぱり、まだ、死ぬ
こと? 私、あなたをもっと生きさせてあげたいのよ」
「いや、何も考えちゃいない。湯から上ったら、さっぱりして、酒を飲
もう。そして、今夜帰るよ……」
と言って、石けんを泡立てて体を洗い始めた。
「そうですか? もう、榛名山へ登って、湖水へ飛び込むのはおやめ
?」
「うん、君とは死ねない。もっと、美人でなくちゃだめだ……」
「まア、憎らしい。いいことよ」
ゆき子は蓮っぱに笑って、浴槽のふちへ両手をかけて、泳ぐようなし
ぐさをした。腕もいくらか太って、すべすべした肌になっている。何もし
ないで、食べて寝る生活が、こんなに体にすぐ反応があるものなのかと、
ゆき子は、しみじみと血色のいい腕を眺めた。
(271 ~272 〈二十七〉)
これが〈非日常〉を潜めた日常というものである。富岡には東京のがら
んどうの家に一人残された妻の邦子がおり、ゆき子は池袋の小舎でジョオ
と関係を持ちながらも結婚の約束を破った富岡の誘いに乗って伊香保温泉
に来、そして年末の三晩を過ごして、今、こうして正月の朝を浴槽につか
っている。この、平凡な光景のリアリティの前に、富岡の心中妄想などは
跡形もなく溶け込んで消えてしまう。もし、この場面だけを抜き出して読
めば、この二人の男と女の姿に〈不思議〉を感じる者はないだろう。
読者は富岡とゆき子の〈日常〉を共犯者的に共有することができる。姿
なき者として、彼ら二人の湯船のなかにつかって心身を癒すこともできる。
なぜ、そんなことが可能かと言えば、富岡が妻邦子を、ゆき子がジョオの
ことを完璧に失念しているからである。換言すれば、作者林芙美子が、彼
らに邦子やジョオを思い出させないからである。が、批評家の眼差しは、
がらんどうの部屋で一人待つ邦子の姿が脳裡に焼きついて離れないし、ゆ
き子の小舎を何度も訪れるジョオの姿が鮮明に見える。
富岡は妻をどのように説得して、家を何日もあけていられるのか。年末
の十二月二十九日に家を出て、今、富岡は伊香保でゆき子と正月の朝を温
泉につかっている。富岡とゆき子の、この日常的〈現在〉にリアリティを
与えるためには、富岡と邦子、ゆき子とジョオの関係を濃密に描く必要が
ある。ところが、林芙美子は、邦子をまるでがらんどうの部屋に据え置か
れた置物、感情を剥奪された人形のごとき存在として放置し続けている。
ジョオもまた邦子と同様な存在に貶られている。淋しい砂漠の街新宿で出
会い、池袋の小舎で関係を結んだ〈大陸的な豊穣さ〉を持ったジョオを振
って、なぜゆき子は惨めな男になりさがった富岡の誘いに乗って伊香保ま
でついてきたのか。一読者のまま、テキストの表層を読み進んでいくなら、
それはそれで男と女のどうしようもない道筋を素直になぞっていくことも
できるが、批評家の眼差しを注ぐと、どうにも納得できない展開に見えて
しまう。
ゆき子はなぜ、富岡の後をついてきたのか。ダラットの森の中を、ひた
すら富岡の後を追って行ったゆき子には、富岡の背中に滲み出ていた〈卑
しさ〉に期待するところがあった。ゆき子は富岡に激しく抱かれることを
望んでいた。伊庭との関係で性の悦楽を躯に刻み込んでいたゆき子は、一
目惚れした精悍でダンディな富岡にそれを期待した。だからこそ「私、今
日の仕事、何をすればいいンでしょう?」という、正当な質問一つを胸に
抱えて、夢中で富岡を追ったのである。しかし、速達で話があるからと誘
われて、待ち合わせ場所の四谷見付に駆けつける、どんな理由がゆき子に
あったのだろうか。

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