2010
01.25

林芙美子の文学(連載168)林芙美子の『浮雲』について(166)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載168)
林芙美子の『浮雲』について(166)

(初出「D文学通信」1372号・2010年1月25日)
清水正


さて、ここで一息つこう。『浮雲』について書きはじめた
のは昨年(二〇〇九)の四月からである。八月、九月は
シルク・ド・ソレイユの『ZED』について毎日執筆し、ブロ
グに三十九回、一日も休まずに連載した。『ZED』論を
書き終えて、再び『浮雲』論に着手、六月二十四日から
毎日執筆し、毎日ブログに掲載して正月を迎え、本日一
月二十一日に到った。毎日執筆することは習慣になって
いるので、それほど苦にならないが、しかし、大学に勤め
ている以上は、講義、会議、レポート・卒論採点、入試、
その他さまざまな行事参加や雑用がある。執筆に対する
執念みたいなものを抱いていないと〈書く〉行為を持続す
ることはできない。


『浮雲』を丁寧に、いちいち引用しながら読みすすめていくと、林芙美
子のものを書く息づかいまでが伝わってくる。同時に、林芙美子のものを
書き続ける執念を感じる。作者林芙美子の執念と批評家の執念が呼応し合
うようなもので、途中で書くことを放棄することは、その執念において敗
北したような感じになるのではないかと思う。
富岡とゆき子に関する人物批評に関してはすでに書き切ったという思い
がある。しかし、作品において、富岡とゆき子は決定的な別れをせずに、
いつまでもぐずぐずと関係を続けている。まず、わたしは、林芙美子が富
岡とゆき子の関係に決着をつけないことに感服してしまう。すでに指摘し
たことだが、『浮雲』はどこで幕を下ろしてもいい。一足先に日本に引き
揚げることになった富岡が、ダラットでゆき子に結婚の約束をした、その
時に幕を下ろしてもいい。友人の小泉から邦子を奪って妻にしておきなが
ら、ニウと肉体関係を結んで子供まで孕ませておきながら、ゆき子とも関
係を続けていたような富岡の〈口約束〉など信ずる女が愚か過ぎる。〈日
本に帰ったらおまえと結婚するよ〉という言葉は〈さようなら〉という言
葉の代わりに発せられたものであって、富岡のような狡くて図々しい、ダ
ンディな男の、別れに際しての決まり文句と思っていれば間違いはない。
しかし、『浮雲』はこの〈間違い〉を執拗に何回も繰り返して展開して
いく。ゆき子は呆れ返るほどに愚かな女であり続け、富岡もまた箸にも棒
にもかからない卑屈で卑小な男を演じ続けている。この二人の男と女の
〈腐れ縁〉を単調と思わせずに描き続けた林芙美子の小説家としての力量
は相当なものである。
ところで、その〈腐れ縁〉に付き合いつづけてきた批評家にしてみれば、
いい加減にしてくれよ、とも言いたくなる。夫婦喧嘩は犬も食わないと言
うのに、わたしは富岡とゆき子の〈腐れ縁〉にずっと付き合ってきた。飽
き飽きしているし、うんざりしているし、ばかばかしい。さっさと、やめ
てしまえばいいようなものだが、先に書いたように〈執念〉がそうはさせ
ないのである。
伊香保温泉で、富岡とゆき子が「複雑な疲れ方で逢っている」(『晩
菊』)ことにリアリティはある。しかし、富岡の誘いに乗って伊香保まで
ついてくるゆき子にリアリティを感じることはない。「小説的な偶然はこ
の現実にはみじんもない。小説のほうがはるかに甘いのかもしれない」
(『晩菊』)と書いた林芙美子は、ゆき子と心中しようなどと考えている
富岡や、そんな富岡の誘いに乗ってのこのこついてくるゆき子をはたして
どう思っていただろうか。わたしには林芙美子が〈小説的な偶然〉を敢え
て拵えたとしか思えない。もちろん、ゆき子と『晩菊』の相沢きんは別人
だが、ゆき子にきんの思いを抱かせてこそ、富岡との関係に凄まじいリア
リティが生まれたはずである。
『浮雲』で際立ってリアリティがあるのは日常が日常として描かれてい
る場面である。カメラの眼差しが外的光景を丁寧に写しとっている場面に、
わたしなどは心動かされる。富岡が黙って本など読んでいる場面は絵にな
るが、心中など空想している富岡のその内面は拵えものという感じがする。
人物の空想や妄想や夢が、異様なほどリアリティを獲得しているのが、
『罪と罰』におけるラスコーリニコフやスヴィドリガイロフのそれである。
自意識過剰のインテリ青年ラスコーリニコフは屋根裏部屋に閉じこもって
〈空想〉に耽ることはできても、その空想を実行に移すことはできない。
が、ドストエフスキーは〈空想〉が〈現実〉に移行していくその偶然の必
然を描くことに成功した。ラスコーリニコフには神と結託した〈悪魔〉が
不断に誘惑の声を囁いているし、スヴィドリガイロフには情欲の業火が燃
え盛っている。富岡には、ゆき子を死へと誘うなにものもない。富岡にリ
アリティを与えるためには、現実において何もできない哀れな男の日常を
日常のままに描くことのほかはない。

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