2010
01.23

林芙美子の文学(連載166)林芙美子の『浮雲』について(164)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

CIMG5265.JPG
ここをクリックする  「清水正の本」 「清水正の著作一覧」 
林芙美子の文学(連載166)
林芙美子の『浮雲』について(164)

(初出「D文学通信」1370号・2010年1月23日)
清水正


富岡は〈心中〉そのものがばかばかしくなって来るが、
同時に東京へ戻ってからの現実を考えると〈落漠とした
感情〉が鼻について来る。〈濡れ鼡になった雑種の犬〉よ
りも惨めな富岡は、厳しい現実から逃避して、存在その
ものをこの世から消してしまいたいという感情に支配され
ている。


富岡は〈心中〉そのものがばかばかしくなって来るが、同時に東京へ戻
ってからの現実を考えると〈落漠とした感情〉が鼻について来る。〈濡れ
鼡になった雑種の犬〉よりも惨めな富岡は、厳しい現実から逃避して、存
在そのものをこの世から消してしまいたいという感情に支配されている。
死の道づれに選んだのがゆき子であったわけだが、ゆき子が富岡の〈空
想〉に同行できる女とはどうしても思えない。富岡がもし本当に死ぬ気が
あるなら、ゆき子を誘わずに、一人で榛名でもどこでも行って死ねばいい。
ゆき子を本気で愛してもいなかった富岡が、死の道連れにゆき子を選んだ
という、その卑小卑劣の臭気がたまらない。作者は富岡の心境を「いまは、
悩みも苦しみも、煙のように糸をひいて消えてしまった」と書いた。悩み
も苦しみも消えてしまった富岡に、はたして死ぬ気力が残っていただろう
か。金が続く限り、伊香保で怠惰な時を浪費することだけが富岡に残され
た現実的な可能性である。
〈二十六〉は次のように始まる。
富岡は煙草に火をつけながら、心を掠めるようなものを感じた。自分
が、この女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も変りはない
のだ。世の中に絶望したとか、何か言ってはいるが、そんなところに、説
明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考えてい
るものではない。ただ、それだけのものだというだけだ。だが、その、何
とも感じてくれない世の中に揉まれて、生き辛さのために、自分の死場所
を求めて歩いている人間というものを、まったく妙な存在だと、富岡は、
寝床に腹這い、闇の中に光る、煙草の火を、ぼんやりみつめていた。
結局は、強烈な享楽によるか、絶望して死ぬかの二つの方法だが、絶
望するということはどうも世の中へのみせかけのようなもので、たとえ、
何かのはずみに死を選んだにしたところで、念頭に、絶望なぞ少しも感じ
ないで死ぬに違いないのだ。富岡は、苦笑していた。この深い暗さは、い
つまでも長続きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる
旅行者の、旅のなごりが、衣ずれのように闇の中に動いていた。
(265 ~
266 〈二十四〉)
考えはじめたら死ねるものではない。死の理由などを考えはじめたら死
ねないし、もし本当に富岡が虚無を抱いていたなら、なおのこと死ねない。
虚無は死ぬ理由を与えないし、死の淵へと飛び込む情熱のマグマを蓄えて
いない。富岡が一人で死のうが、ゆき子と二人で死のうが、世間は何の関
心も示さないであろう。東京大空襲で一ぺんに何万人も死んだというのに、
なんで一人や二人の、まったくドラマチックでない死に関心を持つだろう
か、改めて考えるまでもない。読者は今まで、アンリアルな富岡の心中空
想にゆき子と共に付き合ってきたが、もうそろそろ富岡にも眼を覚まして
もらわなければならない時である。
富岡には〈強烈な享楽〉もないし〈絶望〉すらないのだ。死に到る絶望
がなければ、結果として生きつづけるほかはないが、富岡の生は、いつま
で経っても生温い湯につかっているようなもので、それは彼が腹這いにな
って寝床にもぐっている姿そのものに反映されている。ぐっすり眠ること
もないし、かと言って蒲団から起きていきいきと活動するわけでもない。
隣りの蒲団で寝ていたゆき子が、うううう、と酷くうなされている。富
岡に起こされたゆき子は、見ていた〈厭な夢〉〈妙な怖い夢〉について語
る。
「そう、厭な夢なのよ。血みどろになった、皮をはがれた馬に追いかけ
られていたのよ。どこまで走っても、すぐ追いかけられちゃうのよ……。
何だか、青い着物を着た、顔のない人間が、その馬に乗ってるのよ。苦し
くて、苦しくて、助けてッて言っても、声も出ないンですもの……」

ゆき子の夢に出てくる〈馬〉と〈顔のない人間〉が富岡を隠喩している
ことは明白である。富岡兼吾は敗戦後の日本男子のすべての〈吾〉を兼ね
た〈顔のない人間〉であり、〈青い着物〉はその人間たちの底知れぬ憂鬱
を隠喩している。『浮雲』が発表されてから半世紀もたって宮崎駿は『千
と千尋の物語』で〈顔なし〉を登場させたが、敗戦後の日本人は、とんな
に〈顔〉をテレビで売っても、どんなに主義主張を声高に叫んでも、所詮
は失語症の〈顔なし〉であり、抱えた虚無ははかりしれない。
〈血みどろになった、皮をはがれた馬〉とはゆき子との心中妄想に駆ら
れた馬、すなわち富岡である。ところで、伊香保で三晩を過ごした現実の
富岡は、未だゆき子に対して強烈な性的欲求を感じ、それを実行していた
のであろうか。金もない、自尊心もない、生きる活力もない、それでいて
性的欲望だけが衰えていなかったのが富岡なのかもしれない。そう考えな
いと、ゆき子がなぜ富岡に愛想を尽かさなかったのか、その理由がさっぱ
り分からないことになる。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。