2010
01.22

林芙美子の文学(連載165)林芙美子の『浮雲』について(163)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載165)
林芙美子の『浮雲』について(163)

(初出「D文学通信」1369号・2010年1月22日)
清水正


富岡は単独者の自殺から〈愛する者同士が心中する場合〉
へと話の矛先を変える。富岡とゆき子はすでに〈色めきたつ
思いのない男女〉である。そんな男と女が伊香保温泉の一
室で〈愛する者同士が心中する場合〉の話などしていること
の滑稽をどうしたらいいのか。


富岡は単独者の自殺から〈愛する者同士が心中する場合〉へと話の矛先
を変える。富岡とゆき子はすでに〈色めきたつ思いのない男女〉である。
そんな男と女が伊香保温泉の一室で〈愛する者同士が心中する場合〉の話
などしていることの滑稽をどうしたらいいのか。この滑稽を当の二人がお
互いの意識にのぼらせて話をすすめてくれない限り、読者としてはその滑
稽を味わう気持ちにもなれない。
「僕は君と榛名へでも登って、死ぬことを空想してたンだがね……」
「偶然だわ。私も、そんなことを、この間、考えたことあったのよ」
お互いの心の交流のなかに、少しずつ、死の意識が薄昏い影になって、
眼底を掠めた。富岡はばかばかしいと思いながらも、また、東京へ戻って
からの現実を考えると、落漠とした感情が鼻について来る。苦しさや、悩
みに押しひしがれている時は、まだ生きられる力を貯えていたが、いまは、
悩みも苦しみも、煙のように糸をひいて消えてしまった。
(265 〈二十
五〉)
ゆき子と榛名にでも登って、死ぬことを空想していた富岡は、ここで
〈心中〉の話をしているというよりも、〈心中の空想〉を話していること
に注意しなければいけない。しかも富岡は、自分たち二人がまさに〈愛す
る者同士〉であるかのような前提を少しも壊すことなく、この空想を語っ
ている。富岡の発する言葉が孕む欺瞞の性格がここでも端的に表れている。
富岡の欺瞞を看破している者にとって、富岡の〈空想〉は、嘘で塗り固め
られた妄想に過ぎないが、富岡に未だ執着を残しているゆき子にはせつな
く甘く響くのである。「偶然だわ。私も、そんなことを、この間、考えた
ことあったのよ」とゆき子は応えている。二人で好きなだけ、アホな空想
遊びを続けてくれ、と突っ込みを入れずにはおれないセリフである。
ゆき子は富岡の空想の嘘を徹底的に暴く役割を完璧に回避している。そ
れどころか、富岡の空想に調子を合わせている。が、誰よりも富岡とゆき
子の空想遊びに加担しているのは作者林芙美子である。作者は「お互いの
心の交流のなかに、少しずつ、死の意識が薄昏い影になって、眼底を掠め
た」と書いている。どんな〈淋しい砂漠の街〉にあっても、逞しく生きて
行くのがゆき子である。ゆき子は、食欲も、性欲も旺盛な女で、自殺や心
中に最も似合わない女である。ダラットにいた時の逞しさを失って、ただ
みすぼらしいだけの富岡に、ゆき子を死の穴へといざなう力はない。ゆき
子はそんな富岡の誘いに乗って伊香保までついては来たが、この執着は裏
切り者富岡に対する復讐であって、一緒に死んでもいいという思いとは全
く別の感情である。
作者は「富岡はばかばかしいと思いながら」云々と続けるが、富岡以上
にばかばかしいと思っているのはゆき子であり、読者である。ジョオの
〈大きな真白な枕〉と富岡の〈汚い手拭〉を比べて、ゆき子は後者を選ぶ
が、その理由がまったく分からない。「昔の焼きつくような二人の恋が、
いまになってみると、お互いの上に何の影響もなかったことに気がついて
来る。あれは恋ではなく、強く惹きあう雌雄だけのつながりだったのかも
しれない。風に漂う落葉のようなもろい男女のつながりだけで、ここに坐
っている」とは『晩菊』のきんが、昔の恋人だった田部を前にして思うこ
とである。
『晩菊』の林芙美子は「色めきたつ思いのない男女が、こうしたつまら
ない出逢いをしているということに、きんは口惜しくなって来て、思いが
けもしない通り魔のような涙を瞼に浮べた」とも書いていた。『晩菊』の
林芙美子はきんの内部に冷徹な眼差しを注いで、女という存在の逞しい肖
像を何の飾りもなく描き切っている。きんは「金のない男ほど魅力のない
ものはない」「自尊心のない男ほど厭なものはない」と思っている。作者
は「二人は複雑な疲れ方で逢っているのだ。小説的な偶然はこの現実には
みじんもない。小説の方がはるかに甘いのかもしれない。微妙な人生の真
実。二人はお互いをここで拒絶しあうために逢っているに過ぎない」「き
んは、両手で頬杖をついて、じいっと大きい眼を見はって田部の白っぽい
唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ」と書いた。
『晩菊』のリアリズムを『浮雲』のこの場面に重ねれば、その〈小説的
な甘さ〉が際立ってしまう。相沢きんは十九歳で芸者になり、今は五十六
歳になっている。ゆき子はまだ二十五、六歳できんの半分も生きていない。
しかし、その年齢の差だけで、ゆき子にリアリストの眼差しが備わってい
ないと見るのは間違いだろう。ゆき子にきんの眼差しはある。その眼差し
を封印したのが『浮雲』の作者であったとわたしは見ている。もし、ゆき
子にきんの眼差しを存分に発揮させると、『浮雲』は三分の一位の枚数で
完結してしまったであろう。何しろ、金もなく、自尊心もなく、卑しいだ
けの男になってしまった富岡には、女の心を惹きつけるなにものもなく、
さっさとゆき子に捨て去られるだけの男としか見えないからである。

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