2010
01.21

林芙美子の文学(連載164)林芙美子の『浮雲』について(162)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載164)
林芙美子の『浮雲』について(162)

(初出「D文学通信」1368号・2010年1月21日)
清水正


「もう少し、人生を愉しむンだね」という富岡の言葉に、
ゆき子が怒りの感情を露にするのは当然である。ぼくは
君と心中する気持ちで伊香保まで来たんだよ。もう少し、
二人で人生を愉しもうか。と、もし富岡が言ったなら、ゆ
き子は心の底から富岡に同意したかも知れない。


「もう少し、人生を愉しむンだね」という富岡の言葉に、ゆき子が怒り
の感情を露にするのは当然である。ぼくは君と心中する気持ちで伊香保ま
で来たんだよ。もう少し、二人で人生を愉しもうか。と、もし富岡が言っ
たなら、ゆき子は心の底から富岡に同意したかも知れない。何しろ、ゆき
子は富岡の誘いに乗って伊香保までついてきた女である。その女に向かっ
て「君なンか、やすやすとは死ねやしないさ」云々などと言う男は最低の
男である。富岡は最低の男を、ゆき子を相手に演じているというのでもな
い。富岡は文字通り最低の男で、度し難い男なのである。ここに引用した
場面で、林芙美子が富岡に言わせたセリフは、すべて陳腐で、風俗店に遊
びに行って、若い女の子に説教するバカおやじと同じ類のものである。
「死ぬることを、本気に考えたことあるかい?」「まだまだ死ねない
ね」これらはすべて富岡自身に向けられるべきセリフである。富岡に向け
ての辛辣な批評は、富岡自身が発する言葉自体にある。「死について、楽
観してる」のは、ゆき子ではなく、富岡である。富岡はゆき子を殺せない。
自殺もできない。富岡は死を楽観しているからこそ〈心中〉の妄想になど
耽っていられる。富岡は眼前に存在するゆき子という〈鏡像〉(自己像)
に向かって説教を垂れるという喜劇を、酒の勢いを借りて演じているに過
ぎない。
「死ぬと言うことは、本当は怖わいものなンだ。・・かあっとした、真
空状態になるのを待たなければ、なかなか死ねないものだ」このセリフを
聞いて、すぐに想起するのは『悪霊』に登場するアレクセイ・キリーロフ
の〈自殺〉である。
キリーロフはてんかん者で発作が起きる寸前に永久調和を感じることが
できる。彼は人神論者で、神が存在すればすべては神の意志によって決定
されるが、もし神が存在しないのであれば、自分が神にならなければなら
ない、神になるためには死の恐怖を克服しなければならないという一種独
特の自殺思想を抱いている。この自殺思想を利用して、ピョートルは秘密
革命結社から離脱したシャートフ殺害の犯人をキリーロフに仕立てあげる。
キリーロフは、シャートフが殺害された後、犯人は自分だという遺書を残
して自殺する約束をピョートルと交わしていた。しかし、いざ自殺する段
になって、キリーロフはながいこと躊躇する。待ちきれなくなったピョー
トルに拳銃で頭部を強打され、意識朦朧状態になってようやく銃弾を発射
して自殺する。この場面は思想によって自殺することがいかに困難である
かを端的に示している。
キリーロフは朦朧とした意識の中で「すぐ、すぐ、すぐ」と何度も声に
出した末にピストルの引き金を引いている。『悪霊』の愛読者であった富
岡は、このキリーロフの自殺の場面を念頭に起きながら、死ぬことは本当
は怖いことで「かあっとした、真空状態になるのを待たなければ、なかな
か死ねないものだ」と語ったのであろう。が、富岡はゆき子に向かってド
ストエフスキー文学の話をしたことはない。富岡は『罪と罰』のスヴィド
リガイロフの自殺や『悪霊』のキリーロフの自殺の話を交えながら〈死〉
について話すということはまったくなかった。もし、話をしていれば〈考
えていること〉の〈半分〉どころではなく、底の底まですべてをさらけ出
さなければならなくなったであろう。
「君は、もし、万一、死を選ぶとして、どんな方法をとるかね?」
「青酸カリが一番楽なンでしょう?」
「そんなものを持たない時に、真空状態になったら?」
「そりゃア、その時になってみなくちゃア判らないじゃありませんか?
真空状態で、どんなスタイルで死ぬかなンて、考えてはいられないでし
ょう?」
「じゃア、愛する者同士が心中する場合だね、どっちかが、真空になれ
なかったら、うまく、気分があわないわけだね?」
「違うでしょう? それは、かあっとなるよりも、それを通り越しても
う一つの心の奥で冷たくなって、二人が黙って、ことを運ぶンじゃなくち
ゃ、いけないのじゃないかしら……。死ぬことが怖いのだったら、方法を
考えることだって怖いンだから、二人の死となると、よく計画しなくちゃ
だめなのね……」
(265 〈二十五〉)
ドストエフスキーの文学作品の中では、女と心中しようと思った男はい
ない。スヴィドリガイロフはドゥーニャと心中することを一度も考えない。
妻も子も捨てて、ドゥーニャと二人きり誰も知らない田舎へ引っ込んでし
まおうとか、アメリカで暮らそうとかは思っても、心中しようと思ったこ
とはない。ラスコーリニコフは自殺を考えても、ソーニャと心中すること
など思いもよらない。カラマーゾフ家の淫蕩な人々も惚れた女と心中する
ことは考えない。ドストエフスキーの過激な人物たちが、殺人や自殺は考
えても心中は考えないというのは、改めて考えれば面白いことである。

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