2010
01.20

林芙美子の文学(連載163)林芙美子の『浮雲』について(161)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載163)
林芙美子の『浮雲』について(161)

(初出「D文学通信」1367号・2010年1月20日)
清水正


「私だって死にたいわよ」のゆき子の言葉に対して、
富岡はすぐに「君なンか、やすやすとは死ねやしない
さ」と言う。加野は、富岡のことを毒舌家で神経衰弱だ
と言っていたが、相手の心を苛立たせる刺のある言葉を
吐かずにはいられないのが富岡である。「


「君なンか、やすやすとは死ねやしないさ。これから、おおいに発展し
て、もう少し、人生を愉しむンだね……」
「まア! 何を発展するのよ? 妙なこと言わないでちょうだい」
「それじゃア、死ぬることを、本気に考えたことあるかい? 虚心な気
持ちで、本気で考えもしないで、安っぽく死ぬなンて言うのはよしたがい
いよ」
「いいえ、本気に考えるのよ。私、いつだって考えたわ。海防でも死ぬ
つもりだったし、ダラットで、加野さんの事件があった時も、そのことを
考えてたわ。・・だから、私は、死ぬことなンて、怖くもなンともないン
ですよ」
「ふうん……。それは、まだまだ死ねないね。怖くも何ともないなンて
力んでいるうちは、死について、楽観してるってことだよ。死ぬと言うこ
とは、本当は怖わいものなンだ。・・かあっとした、真空状態になるのを
待たなければ、なかなか死ねないものだ。」

(264 ~265 〈二十五〉)
「私だって死にたいわよ」のゆき子の言葉に対して、富岡はすぐに「君
なンか、やすやすとは死ねやしないさ」と言う。加野は、富岡のことを毒
舌家で神経衰弱だと言っていたが、相手の心を苛立たせる刺のある言葉を
吐かずにはいられないのが富岡である。「死にたくなった」と呟いたのは
富岡で、その言葉に反応してゆき子は「私だって」と口にしたのに、富岡
は「君なンか」とゆき子の心を逆撫でする言葉を発する。「これから、お
おいに発展して、もう少し、人生を愉しむンだね」には、小舎で外国人と
関係を持ったゆき子を揶揄する気持ちが潜んでいる。
事業に失敗した富岡は、手切れ金を整えるのもままならない。あちこち
金策して歩き回り、ようやくまとまった金を手にしてゆき子の小舎を訪れ
れば、〈大きな真白な枕〉と〈ラジオ〉である。富岡にしてみれば、自分
だけが取り残された淋しさを感じたであろう。自分から別れるつもりでい
たゆき子が、淵を挟んだ向こう岸に立っているような疎外感を覚えたであ
ろう。が、その時は、嫉妬まじりの淋しさを極力押さえ込んで、泊まるつ
もりの一過性の欲情に身を委ねた。しかし、ゆき子の激しい怒りの発作の
襲来に欲情を蹴散らされ、富岡は一人、ゆき子の小舎を去って行った。
その日、ゆき子は富岡を追ったが、そのことを知らない富岡はゆき子に
未練を抱いた。淵を挟んだ向こう岸に立っているゆき子を、再び自分の側
に引き寄せるためには、ゆき子を殺して自分も死ぬほかはないと富岡は考
えた。この考えが、実現不可能な妄想でしかないことは、別に冷静になら
なくても分かる。が、描かれた〈事実〉を尊重すれば、富岡はそういった
幼稚な妄想をリアルに感じるほど追い詰められていたということになる。
富岡がゆき子に向かって放った「君なンか、やすやすとは死ねやしない
さ」は、まさに富岡自身に向けられたセリフと言える。富岡はダラットで
ゆき子に約束した結婚を反故にしたように、〈心中〉の妄想もすぐに反故
にする男である。富岡は鏡に映った自分の顔に向けて「これから、おおい
に発展して、もう少し、人生を愉しむンだね」と言っているようなもので、
厳しく言えば、ゆき子という相手の顔が見えていない。ゆき子は富岡の言
葉に挑発されて怒りを露にする。富岡は、相手の心に揺さぶりをかけ、苛
立たせる名手である。ゆき子は、富岡の意外な言葉に不意打ちをくらった
雌鳥のように驚き、「妙なこと言わないでちょうだい」と声を荒らげる。
富岡は女心の移り変わりに関して、冷静な眼差しを送っている。日本に
引き揚げてきて、執拗に富岡を追い回し、家まで押しかけて来たゆき子が、
小舎に外国人の男を引き入れていることを許せない。富岡はもちろん、ゆ
き子と別れるつもりでいるから、ゆき子の生活に干渉することはできない。
にもかかわらず、ゆき子が自分以外の男と関係を持つことを不快に思いな
がら、精一杯無関心を装っていた。富岡の「これから、おおいに発展し
て」云々という言葉が、ゆき子の触れられたくない急所を突いているから
こそ、ゆき子もどうしようもなく反応してしまう。

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