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林芙美子の文学(連載161)林芙美子の『浮雲』について(159)

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林芙美子の文学(連載161)
林芙美子の『浮雲』について(159)

(初出「D文学通信」1365号・2010年1月18日)
清水正


男でも女でも決断できない者はうざったく魅力がない。
富岡は決断できないままに、彼と係わった者たちを不幸
にする。妻の邦子、愛人のニウ、そしてゆき子、富岡はた
だ一人の女も幸せにできない。


男でも女でも決断できない者はうざったく魅力がない。富岡は決断でき
ないままに、彼と係わった者たちを不幸にする。妻の邦子、愛人のニウ、
そしてゆき子、富岡はただ一人の女も幸せにできない。邦子を妻にするた
めに友人の小泉を裏切り、ゆき子を手に入れるために後輩の加野を犯罪者
にする。富岡は実に罪深き、生温きひとである。ユダヤ・キリスト教の神
の支配する国にいたなら、間違いなく神の口から吐きだされてしまう類の
男である。〈こんな男〉にどこまでも付き従っていくゆき子は、林芙美子
版マリアのような存在とも言えようか。
富岡はゆき子に向かって、まるで弱点を突かれた子供のようにむきにな
って「君は、底をついてないンだね。おもしろいだろうね。世の中がおも
しろいだろうね」と言う。ここには池袋の小舎で外国人の男と関係を持っ
て、それなりの商売をはじめたゆき子に対する、富岡流の皮肉が込められ
ている。こういった富岡の皮肉にすぐに反応してしまうのがゆき子である。
作者は「ゆき子は、富岡の考えていることが少しずつ判りかけて来た」と
書き、継いで「甘い涙が、咽喉元まで、溢れそうな気持ちだった」と続け
る。ゆき子は富岡の〈考えていること〉のいったい何が分かったというの
であろうか。ゆき子が知っているのは抱かれている時の性愛的次元での富
岡であって、彼の内的世界に関しては何ら的確に把握することができない
ままである。
もし、ゆき子が富岡の何たるかをよく知っていれば、富岡が一足早く日
本に引き揚げる間際に約束した〈結婚〉を、別れの言葉として受け止める
ことができたであろう。結婚の約束でしかゆき子と別れられないのが富岡
流ダンディの正体であり、そんな男に惹かれたゆき子は日本に帰って富岡
と連絡など取ってはいけなかったし、ましてや富岡の家にまで押しかけて
はいけなかったのである。ゆき子の情熱は執拗に追いかけ迫る情熱であり、
我慢し抑制する情熱とは無縁である。もしゆき子が、抑制する情熱を湛え
た女であったならば、富岡のような優柔不断な男は逆にゆき子を追い回し
ていたかも知れない。
ゆき子は富岡が自分と別れることを考えているのかと思う。富岡は「違
うッ」と即座に答える。同時にゆき子の胸の釦がはずれ、富岡はその釦を
握ったまま、ぬるい炬燵に躯を縮めて横になる。富岡はゆき子の躯を奪う
ことはできても、ゆき子の胸の釦を引きちぎることはできても、ゆき子の
心に添うことはできない。富岡はダラットの森で初めてゆき子に長い接吻
をしたあの最初の日から、ゆき子と本気で係わったことはない。富岡にと
って、邦子も、ニウも、ゆき子も、彼の虚無の沼の中で相対的な価値しか
持ちえなかった。誰か一人を絶対と見なして選びきることができない。結
果として富岡は、行き当たりばったりの対応しかできないことになる。
富岡がゆき子と別れたいと思っていることなど、ゆき子が知らないわけ
はない。知っていて、ゆき子は伊香保まで富岡の後をついて来た。ゆき子
は、眼を閉じて安南の流行り唄など口ずさんでいた富岡に「考えているこ
とを、分けてちょうだい! ね、半分ちょうだい」と言った。泣かせるセ
リフだ。が、富岡はゆき子の要求に応えることができない。まず、富岡の
考えていることが曖昧である。読者は富岡の思想や人生観を知らない。富
岡が戦争、天皇、敗戦をどのように考えていたのか、読者は具体的に報告
されない。知らされているのは、富岡がゆき子と心中するために伊香保ま
で来たということだけである。しかし、この〈心中〉が少しもリアリティ
がないことはすでに指摘した。ゆき子が富岡の〈考えていること〉を半分
欲しいのであれば、まずこのことをぶつけたらいい。「あなたは私を殺す
つもりでここまで来たかも知れないけど、そんな考えは出来もしない妄想
なのよ」と。そうすれば、富岡は自分の考えの半分を否応なくゆき子に与
えなければならなかったかも知れない。否、富岡の妄想を直観できる女で
あれば、のこのこ伊香保までついて来ることもなかったであろう。富岡の
ような妄想男は、現実的な女に愛想を尽かされるのがおちである。

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