2010
01.16

林芙美子の文学(連載159)林芙美子の『浮雲』について(157)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載159)
林芙美子の『浮雲』について(157)

(初出「D文学通信」1363号・2010年1月16日)
清水正


『河沙魚』(昭和21年12月)の千穂子は夫隆吉の
出征中に義父の与平と関係を結び、女の子を生む。
林芙美子の人間認識に微塵のきれいごともない。


生活するという可能性を、あらゆる瞬間において、思いがけなく否定
される障害もあり得る……。富岡は、そうした天地の狭さのなかに疲れ切
ってしまったし、家族を平和に支えていく技術にも、へとへとになってい
た。
みんな気むずかしくなって来る。家族のものは、別々に孤独の穴へ穴
ごもりするだけの現実になってしまうきりだ。
(263 〈二十五〉)
〈生活するという可能性〉を、〈あらゆる瞬間〉において、〈思いがけ
なく否定される障害〉とはいったいどういう障害なのであろうか。作者は
具体的に描かず、読者にも容易に想像させない書き方をしている。『浮
雲』において作者は、富岡家の人々の暮らしを詳細に、生き生きと描くこ
とをしなかった。読者は富岡の父のことを、母のことをほとんど何も知ら
ない。ましてや、そういった〈顔なし〉の姑たちと、嫁の邦子がどのよう
な関係を結んでいたのかも知らない。富岡が家を留守にしていた三、四年
の間、富岡の父親が嫁の邦子をどのように思っていたのか、かんぐればど
のようにでもかんぐれる。
『河沙魚』(昭和21年12月)の千穂子は夫隆吉の出征中に義父の与平と
関係を結び、女の子を生む。林芙美子の人間認識に微塵のきれいごともな
い。三十三歳の千穂子は隆吉との間に二人の子供がある。義父与平は五十
七歳、妻は病気で寝たきりである。こういった家の中で、与平は妻と息子
を裏切り、千穂子は義母と夫を裏切る。倫理的には、与平と千穂子は厳し
く責められるであろうが、林芙美子に罪を犯した人間を厳しく断罪する視
点はない。
肉の喜びを知っている三十過ぎの千穂子と、病床に伏している妻と性関
係を結ぶことのできない与平が交わることは、自然のなりゆきであった。
その現実を紛うことなき現実として受け入れているのが林芙美子である。
林芙美子の小説は、人間はいかに生きるべきかを追求しているのではなく、
人間はこのように生きているという、その現実を描いている。『浮雲』に
おいて、林芙美子は富岡の父親と邦子の関係にはくいっさい触れていない
が、同時期に書かれた小説を通して、その描かれざる場面をどのように
〈見る〉かは、読者に許されたひとつの〈読み〉の行為でもある。
生活の可能性を否定する障害は、事業の失敗、仕事関係の人間たちとの
確執などさまざまに考えられるが、妻の邦子、愛人のゆき子の存在もまた
その一つに数えることができよう。富岡にとって、両親と妻がいる家庭も、
仕事関係の磁場も、ゆき子と逢瀬を重ねている場所も、彼の言う〈狭い天
地〉であり、彼はその〈狭い天地〉に釘づけにされて疲れて切っている。
もはや富岡には〈家族を平和に支えて行く技術〉を駆使する力は残されて
いない。父も、母も、邦子もみな、気難しくなって〈孤独の穴〉に穴ごも
りしてしまった。ゆき子の小舎もまた〈孤独の穴〉には違いないが、ゆき
子だけは穴ごもりせずに、富岡が呼び出せば、その〈孤独な穴〉から抜け
出てくる旺盛な生命力を失っていない。
富岡の卑怯は、ゆき子の〈孤独な穴〉に一緒にもぐり込んで土を被せる
覚悟もないのに、小舎に入り込んだり、呼び出したり、できもしない心中
の妄想に耽ったりしていることである。ジョオは〈淋しい砂漠の街〉を目
的もなく彷徨っていたゆき子に声を掛けることができた。ジョオはパンパ
ンの商売女に声を掛けたのではない。深読みを恐れず言えば、大陸的な豊
穣さを備えた若者が、ゆき子の虚無を一瞬とは言え、大きな暖かい毛布で
包んだのである。
男と女の間に、民族の違いも、戦勝国と敗戦国の人間の違いも、肌の色
の違いも、年齢の違いも、知識や教養の違いも障害となることはない。
〈淋しい砂漠の街〉で偶然出会ったゆき子とジョオの、その描かれざる濃
密な関係を忘れてはならない。ゆき子は、汚い日本手拭いの富岡に抱かれ
ながらも、大きな真白な枕を共にしたジョオのことを忘れてはいない。富
岡はへとへとになって孤独な穴ぐらにもぐり込んでいるが、ゆき子の旺盛
な生命力は、富岡の穴ぐらに入りきれない図太さを備えている。

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