2010
01.14

林芙美子の文学(連載157)林芙美子の『浮雲』について(155)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載157)
林芙美子の『浮雲』について(155)

(初出「D文学通信」1361号・2010年1月14日)
清水正


林芙美子はゆき子の内心に踏み込んで行かない。
確かに「ゆき子は、放蕩の果てのような荒さんだ気持ち
だった」とは書いている。しかし、ゆき子が富岡やジョオを
どのように思っているのか、その思いを具体的に書く
ことはしなかった。


林芙美子はゆき子の内心に踏み込んで行かない。確かに「ゆき子は、放
蕩の果てのような荒さんだ気持ちだった」とは書いている。しかし、ゆき
子が富岡やジョオをどのように思っているのか、その思いを具体的に書く
ことはしなかった。作者は、ゆき子が湯殿に向かう前、「ゆき子は、一時
の狂態も過ぎてゆくと、じいっと眼をすえて、富岡を眺めながら、どうし
て、こんな男に惹かれているのか、自分でもおかしかった」と書いた。ゆ
き子は富岡に愛想を尽かさない、奇妙なことだが、ゆき子は「自分でもお
かしかった」ですましてしまう。否、ゆき子ばかりではなく、作者もまた
その一言ですましてしまう。ゆき子は富岡に対し、思考を停止してしまっ
ており、彼に対する不信と疑惑を言葉にすることがない。
ゆき子は富岡に対する思いを作者によって封じられている。ゆき子は富
岡を〈こんな男〉と思っても、富岡を捨てて東京へひとり戻ることを考え
ない。まるでゆき子は富岡の影のように、富岡なしでは存在できない女と
して描かれる。赤い湯殿で、一緒になった若い女たちの思いに共感すると
ころが多いはずなのに、ゆき子は彼女たちと同じ道を歩んでいくことをせ
ず、自分を殺す妄想に耽っている富岡の待つ部屋へと戻って行く。
〈二十五〉は次のように始まる。
意味もなく、富岡とゆき子は、二日ばかりを伊香保で暮した。二日も
雨が続いた。流石に、正月を明日にひかえては客もなく、広い旅館はひっ
そりしていた。
富岡は、二日の間に、何ものも把握することはできなかった。真剣に
ものを考えようとして、少しも心は中心へ向いてはゆかなかった。
自己矛盾にとらわれている。自分をどのように始末してよいのか判ら
ない。戦争が済んで、遠くから戻って来たものには、どの人間にもこうし
た一種の気後れがあるのではないかと思えた。
その気後れを気づいている者と、気づいていない者とあったとしたと
ころで、狭い天地で、釘づけにされた人種は、一人一人が、孤独に、てん
でんばらばらになってゆくより、道はないのではないかと思えた。
全面的な真理を追うには、こうしたやぶれた国の狭い土地では、とう
ていむずかしい、空虚な理想なのである。

(262 ~263 〈二十五〉)
富岡とゆき子が伊香保での二日間を具体的にどのように過ごしたのか。
作者は何一つ報告しない。深夜の湯殿で二人の女の〈忍び笑い〉に対抗し
て、大きななまめかしい声で安南の流行り唄を歌ったゆき子が、部屋に戻
って富岡とどんな話をし、どんなセックスをしたのか。まさか伊香保まで
来て、酒を飲み、湯に二度までつかったゆき子が、富岡と何の関係もなく
眠りについたとは思えない。富岡は〈煮〆めたような日本手拭〉であるが、
ゆき子はこの〈汚い手拭い〉に抱かれて〈放蕩の果てのような荒さんだ気
持ち〉を慰めるほかはないのだ。深夜の湯殿には〈赤い濁った湯〉が溢れ
ていたが、富岡との一夜には、汚れた放蕩の赤い血が溢れていたというこ
とであろうか。
作者は富岡とゆき子が過ごした二日間の出来事を省略したが、「意味も
なく」という言葉が二人の二日間の実態を的確に表している。富岡はゆき
子と心中する妄想にリアリティを与えることができずに無為な二日間を費
やした。ラスコーリニコフは二人の女を殺してまで、自分の行為に罪の意
識を見いだすことができずに苦しんだが、富岡は自分がこれから犯そうと
している犯罪そのものに、口に運ぶ酒ほどの現実味も感じることができな
い。ラスコーリニコフの〈犯罪〉に手を貸したのは〈悪魔〉の囁きである。
〈悪魔〉はラスコーリニコフの前に、〈犯罪〉に至らざるを得ない〈偶
然の魔〉を次々に用意した。が、富岡の場合は、殺そうとする相手の顔を
凝視すれば、そこにあるのは平べったい、どこにでもころがっているよう
な平凡な顔であり、この食欲旺盛な〈華麗な化粧〉をほどこした女は、犯
罪を誘う不可避的な要素のなにものをも備えていない。富岡の心中妄想は、
悪魔の協力を得られない屋根裏部屋の空想家の域にとどまって、何らの発
展性も孕んでいない。富岡がどうしても死にたいというのであれば、その
死に相応しい女を見つけなければいけない。ゆき子は、生に執着する女で
あって、死になんらのロマンチシズムも感じてはいない。ゆき子にロマン
チシズムがあったとしても、それは富岡と悦楽の日々を送ったダラットに
対する郷愁、もはや彼ら二人の未来には二度と訪れることのない〈楽園〉
に対する郷愁だけである。富岡が歌った流行り唄の歌詞に心底同意するゆ
き子は、伊香保がダラットにはならないことをよく自覚している。汚れき
った手拭いのような男に抱かれても、ダラットでの夢を再現することはで
きない。

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