2010
01.11

林芙美子の文学(連載154)林芙美子の『浮雲』について(152)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載154)
林芙美子の『浮雲』について(152)

(初出「D文学通信」1358号・2010年1月11日)
清水正


女の逞しさは、〈瞬間のなかに流され〉ているだけなのに、
そのことを明確に自覚することもなく、眼前の事柄に平然と
対処できる能力にある。伊香保温泉の旅館についたばかり
のゆき子の頭にあったのは、空きっ腹にご飯を詰め込むこと
であった。


「生涯の最後だと思うと、何もかも淋しい美しい」などという、ロマン
チックな感傷に浸っている富岡を、現実に引き戻すのが食欲を満たしたゆ
き子である。
「商売はどんなふうなの?」
「商売?」
「ええ、材木のほうのお仕事よ」
「ああ、仕事かい? 何とかなるだろう……」
「家は、まだ売れないの?」
「売れて、半金は貰った。来年登記をして、一月の終りには、家を明け
渡すのさ……」
「いくらに売れて?」
「いくらでもいいじゃアないか」
「そりゃアそうだけど……。だって、聞いたっていいでしょう?」
ゆき子は、一時の狂態も過ぎてゆくと、じいっと眼をすえて、富岡を
眺めながら、どうして、こんな男に惹かれているのか、自分でもおかしか
った。ただ、その場で逢っているだけの二人のようでもある。ゆき子は立
って、手拭いを取って、また湯に這入りに行った。
(260 〈二十四〉)
女の逞しさは、〈瞬間のなかに流され〉ているだけなのに、そのことを
明確に自覚することもなく、眼前の事柄に平然と対処できる能力にある。
伊香保温泉の旅館についたばかりのゆき子の頭にあったのは、空きっ腹に
ご飯を詰め込むことであった。湯につかり、食欲も満たされた後では、眼
も開けずに安南の流行り唄を口ずさんでいる富岡のそばに行って「考えて
いることを、分けてちょうだい!」と殊勝な、男心を揺さぶる名セリフを
口にし、続いて富岡の胸にしがみつきながら「淋しいのよオ」を連発する。
しかし、その一時の狂態が収まると、富岡を眺めながら、「どうして、こ
んな男に惹かれているのか」と思い、自分でもおかしくなって、再び湯に
入るために手拭いを取って立ち上がる。
男は、女を殺して自分も後追い自殺する妄想にかられながら、流行り唄
などを口にしている時に、女の方では空きっ腹を十分に満たし、さらに性
欲も満たそうとアプローチしているのに、男は依然として妄想気分の中に
浸っている。女は現実に戻って、商売の方に話を向けるが、男はすでに現
実を捨てて伊香保に来ているから、今さら商売のことなどに関心はない。
どこまでも現実を生き抜こうとしているゆき子と、妄想の世界に逃げよう
としている富岡とが、ここで心身共に一体化でき得るはずもない。
富岡の〈芝居がかりの死の舞台〉、その妄想には何のリアリティも感じ
られないが、ゆき子の行き当たりばったりに見える言動には女特有のリア
リティがある。食欲と性欲といった、人間の基本的な欲望にゆき子はまっ
たく逆らう気持ちがない。接近して、接近して、接近しても駄目なら、す
ぐに気持ちを切り換えられる、冷徹な心的装置がゆき子には備わっている。
「私、淋しい」と言って男の胸にとりすがる情熱の女が、次の瞬間には
「どうして、こんな男に惹かれているのか」と、我が身を冷静に振り返る
女ともなれる。
この場面では、ゆき子は湯に入るために手拭いを取って立ち上がったが、
〈こんな男〉富岡を部屋に残し、さっさと着替えして、一人東京へと帰っ
ていくゆき子を描くこともできたはずである。わたしはその方が、男と女
のドラマとしてはリアリティのある設定だと思うが、林芙美子は、富岡兼
吾という日本男子を代表する典型的な〈ろくでなし〉を最後の最後まで突
き放すことはなかった。ゆき子は林芙美子の、富岡とどこまでも連れ添う
という使命を授かって、『浮雲』という小説世界に派遣された人物(作者
の化身)とも言えようか。

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