「文芸批評論」講義の後、江古田の居酒屋で。穴澤さんと菊池さん。
テキスト『悪霊』の解体と再構築についての考察
映画学科4年 菊池 舞子
ドストエフスキーの『悪霊』と、清水正先生の著作『ウラ読みドストエフスキー』を読んだ。これから私の考察による、批評家・清水正のテキストの解体と再構築について思うところを述べたいと思う。
まず『悪霊』だが、随所に込められたタブーの要素を表面上読み取ることは他の一般の読者と同様に、私もできたことと思う。ニコライの罪の告白によるところの少女マトリョーシャへの性的虐待行為や、ステパンから生徒ニコライに対する異様な信頼とそれに伴う行動(ホモセクシャルな匂い)、シャートフ夫妻に代表される神の存在を信じる者たちの無残な死によって表される神の存在否定など、『悪霊』にはテキストの表層部分だけでも十分感じ取ることができる文学作品の“面白さ”が溢れている。
“面白さ”というのは人それぞれ、読者それぞれ様々あるが、『悪霊』は文学作品における物語のドラマ性や、事件の意外性、登場人物たちのキャラクターやその相関図など、ただの読み物として一言でいえば「エンターテイメント性」というところでも十分すぎる満腹感を読者に与えてくれる作品である。
しかし、清水正はこの作品の読者を、そのような一時の読書体験に留まらせておかない。テキストのもっと奥深くに眠らされている、さらに興味深いエンターテイメントの世界に気付かせる。いや、気付かせるだけに留まらず、その世界のもっと深く深くへと読者をとらえて引き込んでいくのだ。
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課題である『ウラ読みドストエフスキー』295項~333項というのは、「第四章 ドストエフスキー〈言葉に隠された謎〉」の中の『悪霊』に関して触れられた部分である。第四章の始まりは、ドストエフスキーが兄弟や知人に当てた書簡より、神の存在や自らの信仰に関して記された部分が挙げられている。この書簡の引用から、ドストエフスキーが自身の作品に何を託し、何を解き明かそうとしていたのか、その一端が見える。信仰に対する大きな渇望と神の存在、さらに人間の神秘のその神髄に迫ろうとしたドストエフスキーの苦悩が、ドストエフスキー本人が残した言葉を知ることで、彼の残した文学作品を読み解く上での重要な手掛かりとなる。
人間の包み隠している部分をさらけ出して裸にし、さらにその皮膚の下にまで迫ろうとしたドストエフスキーは、その作品をもって疑惑の念を持ち続けながらも、どこまでも神の力を試そうとする。登場人物たちは「人間は自分の欲望のためにならここまで出来る存在なのだぞ!どうだ神よ!」と言わんばかりの言動・行動を起こすのだが、しかし、清水正は小沼文彦氏のつぶやきに同調し、ドストエフスキーは「不信と懐疑を抱えこんだ信仰もあるのだと思うようになった」という。この言葉への単純な同意は、ドストエフスキー作品にほとんど触れたことのない私には、簡単に越えてよい壁ではないように思うところではある。が、ここに恐れながらも同意することで、先へと論を進めさせて頂きたい。
「不信と懐疑を抱えこんだ信仰」を抱き続けたドストエフスキーの生み出した文学作品の中での『悪霊』を、清水正は表層のテキストでは明確な記述をされていない部分に大きな解釈を加え解体していく。なかでもニコライの少女マトリョーシャ凌辱の告白部分の読み解きは刺激的であり、衝撃的でもある。
ニコライの神への挑戦ともとれる告白を読み解く鍵として、清水正は息子ニコライに対する母親ワルワーラの異常な愛情を提示したのだ。
ニコライの幼い少女への凌辱は、単なる獣的な欲望のはけ口を目的とした、偶然起こった単なる事故ではないということを、これまでのドストエフスキーの作品群の内容とテキストの記述(滞在中のペテルブルグには恋人の貴婦人とその小間使いとも関係しており、そのための部屋もそれぞれ用意していた)によって証明し、ニコライのタブーを犯す興奮に対しての欲望の現れだという。と、ここまでは読者も清水正と足並みを揃えてついていくことができる。しかしここから、清水正の批評は一気に読者を引き離すのだ。なぜ、ニコライは少女を凌辱し、見殺しにできるような冷酷な青年に成長したのか?その原因を解き明かす。これがテキストの解体と再構築である。
その原因は前述の通り、清水正は母親の存在にあると考える。ニコライと母親ワルワーラとの関係についての記述は、本編中斜め読みなどしていれば読み飛ばしてしまえる程少ない。ステパンとは“親友”という間柄の秘書アントンの言葉で、『ウラ読みドストエフスキー』中では、わずか4行に終始する。
確かに家庭教師ステパンの与えた影響は大きい。しかし母親ワルワーラの影響が深く少年ニコライの精神的な成長に影を落としているというのだ。わずか4行の記述からの推察である。驚くべきことに、その指摘を念頭に改めて物語を読み返すと、そこには表層のストーリーを追っていくことでは見えてこなかった、母親の大きすぎる愛情に息継ぎができず苦悩する、青年ニコライの姿が浮かびあがってくるのである。そしてあの告白のアパートに生えたゼラニウムの葉の上にいた赤い蜘蛛は母親であるという解釈も、納得をせざるを得ないのだ。母親の赤い蜘蛛が作る広く細かく張り巡らされた巣に、息子のニコライは引っかかり、もがけばもがくほどに絡まってしまう。神の存在を知る前に強大な存在として対面する母親の影響力は、もしかすれば神よりも大きな存在であり、小さな子供にとって必ずや何かしらの影響を及ぼす存在である。蜘蛛という生き物は本来自分の蜘蛛の巣に引っ掛かることはない。母親ワルワーラは、自分の息子を自らの張った巣に囲い込み、捕えて離さないばかりか、自分にとって心地よい蜘蛛の巣によって息子を半ば生殺しにしていることに気がついていないのだ。
また赤い蜘蛛と共に登場するゼラニウムは「尊敬と信頼、真実の愛情、安楽」という花言葉を持つが、皮肉にもニコライの視線の先には、真実の愛情や安楽を足蹴に闊歩する、赤の蜘蛛が大きくクローズアップされるのである。
これを清水正は母親によって死を待たれた存在として、ニコライを見つめる。凌辱されたマトリョーシャの死を待っていたニコライを包む、さらに大きな死の網の中にいることに、ニコライは気付かず苦しみ続けるのだ。
そこで、ニコライがマトリョーシャの死を見殺しにした原因が見えてくる。清水正は最後の最後までニコライに疑問を投げかけ、その原因をえぐり出す。
母親ワルワーラの溺愛から脱するため、ニコライは自分と同等の“弱い立場”にある少女マトリョーシャと自分を重ね、“自分の死”に立ち会おうとしたというのだ。
「ニコライはこの母の支配から脱することができなかった訳だが、不遜にも自らを母と同一化することによって、もう一人の自分(マトリョーシャ)の死に立ち会おうと試みたのである。換言するなら、ニコライは十字架を背負い、十字架上で息絶えたイエスとイエスの苦悶に終始沈黙を決め込んだ〈我が神〉の二役を演じることで、〈神〉を試みたのである。」
と『ウラ読みドストエフスキー』323項にあるが、ニコライはもはやこの実験を経て、善悪や人々の信仰の矛盾に対し、考えることを辞めてしまった。そしてこの物語の結末は、ニコライの自殺による、〈神〉や〈我が神〉など考える必要のない世界への逃亡によって幕を閉じることになる。
『悪霊』はもちろんフィクションであるのだが、例えばニコライのような人間をも包括する、そのような人間が生まれ出る可能性を限りなく含んだこの世界に生き、「不信と懐疑を抱えこんだ信仰」の軌跡を残し続けたドストエフスキーの、ニコライのそれをも凌ぐ、さらなる苦しみは私には計り知れない。しかし、まことに安易ながら、このドストエフスキー文学の理解に励む事は、何か自分の人生を生きる上で大事なものに気付くことにつながるのではないかと思うのだ。
それに伴い、この批評の重要性は計り知れない価値を持つことになる。「ドストエフスキー文学は現代文学だ!」と声を大にして言う批評家・清水正が、ドストエフスキーと読者陣の間に存在することで、ドストエフスキー文学は現代文学たりえるのだと私はここに宣言したい。
清水正の、その作品世界へ深く切り込んでいく冒険者的精神は、すべての芸術作品を体験する者へ、ある種の勇気をも与えることに成功している。作品の物語世界を、おそらく作者の意図したところを超えてまでも、批評していくというところにおいて、臆病になる芸術体験者、文学によるところの読者が多いことであろう。さらに作品の表現されていない部分にあまりに大きな飛躍を加えることを良しとしない考えを持つ者もおそらくいるであろう。しかし、清水正の批評、その著作からは、決してその様にイメージするところの軽薄な飛躍ではなく、作品の価値の再考を読者に誘い、またさらにその作品への面白さを増加させることにつながっており、これはつまり作品への最高の敬意を込めた、高尚な作業であるといえるであろう。
批評家を、ある作品の陰の存在としてではなく、れっきとした表現者として、エンターティナーとして体現している清水正の存在を、私は出会いに感謝すると共に、その姿勢を見習わなくてはならない。さらに大きな飛躍をすれば、この一批評家の冒険的精神は、全ての批評家のあるべき姿と考えるのである。
批評家・清水正の行うテキストの解体と再構築は、溢れ出る作品への純粋な愛情の結晶なのである。