2010
01.09

林芙美子の文学(連載152)林芙美子の『浮雲』について(150)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載152)
林芙美子の『浮雲』について(150)

(初出「D文学通信」1356号・2010年1月9日)
清水正


〈淋しい〉を四回も続けて発するゆき子の淋しさを
誰一人として疑う者はいないだろう。ゆき子の全存
在がこの〈淋しい〉という言葉に体現されているかの
ように響く。読者にさえ痛くせつなく突き刺さってくる
この言葉を、胸にしがみつかれて耳にする富岡はど
う思ったのだろうか。


「私、淋しい、淋しい、淋しい、淋しいのよオ……」
富岡の胸にしがみつくようにして、ゆき子は、淋しい淋しいと、小さ
い声で叫んだ。富岡はまじまじと女の狂態を眺めながら、少しも、ゆき子
のその狂態に感動はできなかった。女の心は、窓下の水の流れと同じよう
に、ただ、瞬間のなかに流されているとしか考えられない。
(259 〈二十
四〉)
〈淋しい〉を四回も続けて発するゆき子の淋しさを誰一人として疑う者
はいないだろう。ゆき子の全存在がこの〈淋しい〉という言葉に体現され
ているかのように響く。読者にさえ痛くせつなく突き刺さってくるこの言
葉を、胸にしがみつかれて耳にする富岡はどう思ったのだろうか。富岡は
ゆき子の〈狂態〉をまじまじと眺め、その〈狂態〉に感動できずにいる。
富岡はゆき子の〈狂態〉に全身全霊を持って共鳴し、受け止めることがで
きない。換言すれば、富岡はゆき子の〈狂態〉に取り残されてしまってい
る。富岡はゆき子と同じ列車に乗って伊香保まで来ながら、精神と感情の
次元では、同じ列車の振動を我が身に感ずることができない。
ゆき子は自分の感情をストレートに表現する。思いを深く内に沈めて、
冷静に対処することができない。池袋のホテルでは、自暴自棄になって、
蒲団を頭から被ってごろごろと畳を転げまわったり、富岡が小舎に訪ねて
来て泊まらずに帰って行った夜は、炬燵にもぐり込んで、獣のように身を
揉んで泣いた。富岡の流行り唄を聞きながら「私、諦めちゃったのよ」と
言ったばかりのゆき子が、次の瞬間には富岡の胸にとりすがって「私、淋
しい、淋しい、淋しい、淋しいのよオ」と押し殺した声で叫ぶのである。
この〈狂態〉に、もし富岡が熱く同調できれば、〈心中〉という〈芝居が
かりの死〉もまた可能であったかもしれない。が、富岡はゆき子の〈狂
態〉を冷静な眼差しで眺めることしかできない。
富岡は「女の心は、窓下の水の流れと同じように、ただ、瞬間のなかに
流されているとしか考えられない」と思う。この言葉は女心の心理を的確
に捕らえているが、この言葉はそのまま富岡自身にも当てはまるであろう。
ゆき子は富岡を追い回しているが、ジョオと関係を持つこともできるし、
加野のことも思いのうちにある。ゆき子は、富岡がいなくなっても、彼女
なりに逞しく生きていくことができる。富岡は、ゆき子がジョオと関係し
て娼婦まがいの生活を始めようが、加野の名刺をバッグの中にしまいこん
でも、別にそのことで嫉妬したり厭味を言ったりすることはない。富岡は
女心の移り変わり自体をそのまま認めている。同じく、富岡も、妻の邦子
があっても安南人のニウと関係するし、ゆき子とも関係を結ぶ。〈瞬間の
なかに流されている〉という点では、女のゆき子よりはるかに富岡の方が
あてはまる。
──富岡は、死の方法についてのみ、考えをめぐらせていた。立派に息
の根をとめることができるものであろうか、どうかを、考えている。女を
殺して、その後から、うまく、自分も死ねるものであろうかどうかを、富
岡は、数字のように計算をしていた。愛しあって死ぬるわけのものではな
いかと言うことを、自分の死んだあとは、誰も判ってはくれないだろう…
…。それもよかろうと思った。
この場合、富岡には「死」そのものが必要だったのだ。女を道づれに
するのはどうなのだ? これは、自分の死の道具に過ぎないのさ。勝手な
奴だな。俺はそういう人間なンだ……。富岡は、ゆき子の指をときどき固
く握り締めてみながら、自分の心に自問自答している。怖ろしいとか、つ
くりものだとか、いやらしいとかの考えだというのならば、それは他人の
考えることであって、死んでゆくものは、案外、悲劇を演じているつもり
かもしれない。
(259 〈二十四〉)
はっきり言ってこの引用場面には何のリアリティもない。富岡の自意識
はすでに、人間のやっていることはすべて〈喜劇の連続〉であるという認
識に到達しており、今更、食欲旺盛な平べったい女と心中する喜劇を演じ
られるわけはない。富岡にできることと言えば、〈死の方法〉について考
えをめぐらしている振りをするだけのことである。ゆき子を殺すことも、
そのあと自分が死ぬことも、それはすべてできもしない妄想にしか過ぎな
いことを知っていて、しかしその妄想に耽ることだけが、今この時、富岡
に許されていたというのなら分かる。が、ここでの富岡は、あたかも、そ
の妄想を、実現可能なことのように考えている。作者は「愛しあって死ぬ
るわけのものではないかと言うこと」といった分かりにくい表現をしてい
るが、要するにこれは「富岡とゆき子が愛し合って心中したのではない」
という意味のことを言っているのだろう。
富岡は自分一人が死ぬ必要のためにゆき子を〈道づれ〉にしたいと考え
た。ゆき子は富岡の〈死の道具〉として見られている。〈色めきたつ思い
のない男〉が、ゆき子を〈死の道具〉として利用しようとしている。富岡
は自分を〈勝手な奴〉だと思い、「俺はそういう人間なンだ」と開き直っ
て見せる。この富岡の妄想を単なる妄想としか思えない読者にとって、富
岡の〈自問自答〉は何ら説得力を持たない。富岡という男は、ゆき子を
〈死の道具〉にして無理心中できる〈勝手な奴〉ではなく、できもしない
妄想(自分の頭の中で勝手につくりあげた虚構)を現実のものと錯覚して
しまうような滑稽な奴であり、そこまで自意識を徹底することのできない
中途半端なろくでなしなのである。

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