2010
01.08

林芙美子の文学(連載151)林芙美子の『浮雲』について(149)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載151)
林芙美子の『浮雲』について(149)

(初出「D文学通信」1355号・2010年1月8日)
清水正


恋ははじめの日だけが真実、いまは疑いの眼とは、
男と女の恋のまことの姿を端的に語っている。ゆき子
は、富岡とのダラットでの熱い日々を思い、富岡は邦
子、ニウ、ゆき子との最初の出会いと〈いま〉を思って
いたであろう。


「富岡さん、いつまでも、元気でね。ときどき、ダラットのことを思い
出したら、ゆき子を呼んでちょうだい……。ね、私、諦らめちゃったの。
ときどき、こうして逢って貰えばいいことよ。ね、そのほうがいいわ。・
・さっきの唄みたいなのが、私たちの間柄だったンだって判ったわよ…
…」
(259 〈二十四〉)
恋ははじめの日だけが真実、いまは疑いの眼とは、男と女の恋のまこと
の姿を端的に語っている。ゆき子は、富岡とのダラットでの熱い日々を思
い、富岡は邦子、ニウ、ゆき子との最初の出会いと〈いま〉を思っていた
であろう。性愛に基づく恋など三年も持てばいい方で、男も女も、限られ
た特定の異性にだけ情熱を傾けるのは不可能である。富岡だけを追い回し
ているかのような印象の強いゆき子ですら、伊庭との関係を思い出して人
肌恋しく思う時があったし、自分のことを好きになってくれた加野と逢い
たいとも思うし、淋しい砂漠の街で声をかけてくれたジョオとはすでに肉
体関係を結んでいる。恋を〈色めきたつ思い〉と置き換えてもよければ、
そんな思いはめったにあるものではないし、もしあったとすればそれは一
過性のものである。
富岡は友人から奪ってまで一緒になった邦子に最初のうちは〈色めきた
つ思い〉を抱いたであろうが、今や、邦子は富岡に対し〈うたがいの眼〉
以外の眼差しを向けることはできないだろう。富岡と深い関係にあったニ
ウもまた、ゆき子の登場によって〈うたがいの眼〉を富岡に向けざるを得
なかった。富岡、ニウ、ゆき子の間に三角関係の修羅場は演じられなかっ
たが、富岡の子供まで身籠もって田舎へ帰っていったニウのことを思えば、
富岡は実に罪深い男である。
富岡に神の存在はないから、神へ向けての懺悔や告白はないし、そもそ
も罪の意識が希薄である。富岡は、流行り唄を口ずさみながら、温泉町の
ゆるやかな時の流れに身をまかせている。ゆき子は富岡の唄を聞きながら、
二人の関係をなぞっている。ゆき子も苦労を重ねてだいぶ大人になってき
たのか。富岡に対し、或る一定の距離を冷静に保てるようになったことを
口に出す。二人の間に、諦めの栞を挟んで、時々逢って貰えればいいと言
うゆき子の、その余裕が哀しくもある。
富岡は眼をつぶり、静かに安南の唄を口ずさんでいる。ゆき子は、立
って、富岡のそばに行き、並んで炬燵へ滑り込んだ。富岡はそれでも唄い
続けて、眼を開けなかった。
「どうして、自分一人で、考えごとをしているの? 私にも、考えてい
ることを、分けてちょうだい! ね、半分ちょうだい……」
考えていることを、半分ちょうだいと言われて、富岡はぱっと眼を開
いた。
ゆき子が可愛かった。自然に出る、女の言葉は、瞬間の虹のようなも
のであるだけに、富岡は、誘われる気持ちで、ゆき子の指を取り、唇に持
って行った。

ゆき子のセリフは男の胸にせつなさ一杯の針を突き刺す。林芙美子は詩
人でもあったが、ここでのゆき子のセリフは詩人の魂を賦与された者のそ
れである。考えていることを分けてちょうだい、半分ちょうだいと言われ
て心動かぬ者はいないだろう。半覚半睡状態で流行り唄を口ずさんでいた
富岡の眼がぱっと開く。富岡はゆき子を可愛いと思う。ゆき子は富岡によ
れば平べったい顔をした平凡な女だが、しかし、こういうセリフを自然に
吐けるゆき子には非凡な感性を感じる。
ゆき子は惚れた男に対しては熱く求める女である。埃臭い、惨めな、濡
れ鼡のような富岡に誘われるままに伊香保まで付いてきたゆき子は、ここ
でも積極的に臆することなく富岡にアプローチする。富岡の〈考えごと〉
の中核はゆき子との〈心中〉である。はたして、思いの異なった二人が、
富岡のこの思いを一つにすることかできるのか。その前に富岡は自分の
〈考えごと〉をゆき子に話すことができるのかである。
すでに富岡は伊香保の旅館に落ちついて、湯に入るのも、躯を動かすの
も億くうで大儀になっている。「このままぼおっと地の底に消えてしまい
たかった」などと思っている富岡に、〈心中〉などという〈芝居がかりの
死の舞台〉の主役を張れる気力も体力も残されてはいない。富岡にできた
ことは、ふと、ゆき子を可愛いと思ったその瞬間に、ゆき子の指を取って
唇に持っていくことだけであった。
富岡はゆき子の求めに、かろうじて躯で応えることはできても、〈考え
ごと〉を分かち合うことはできなかった。富岡は『悪霊』を読んでニコラ
イ・スタヴローギンに共鳴することはあっても、その思いをゆき子に話す
ようなことはなかった。富岡の精神の扉がゆき子に向けて開かれることは
なかった。富岡の虚無、倦怠は、彼の気障な、とりすました言動によって
醸しだされてはいても、彼が強く影響を受けた文学作品の解読や感想を通
して浮上することはなかった。富岡とゆき子の関係に欠如しているのは精
神の交流である。精神など、性愛の次元における男と女の赤裸々な関係の
前では何の力もないのだと言わんばかりに、林芙美子は、二人の間にいっ
さいの文学論議を挿入することはなかった。

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