2010
01.07

林芙美子の文学(連載150)林芙美子の『浮雲』について(148)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載150)
林芙美子の『浮雲』について(148)

(初出「D文学通信」1354号・2010年1月7日)
清水正


富岡とゆき子は結婚していないだけで、ダラットでは実質
上の夫婦のような関係を結んでいたのであるから、すでに
四年以上の経歴がある。言わば彼らは、色めきたつ思いの
ない夫婦のようなものである。


富岡とゆき子は結婚していないだけで、ダラットでは実質上の夫婦のよ
うな関係を結んでいたのであるから、すでに四年以上の経歴がある。言わ
ば彼らは、色めきたつ思いのない夫婦のようなものである。否、それどこ
ろか富岡はゆき子を殺害する妄想を抱いて伊香保にまでやって来たのであ
るから、ロマンチックな気持ちなどになるわけもない。部屋についてこの
まま地の底に消えてしまいたいと漠然と思っている富岡と、一刻も早く着
替えをすまして温泉につかり、食欲を満たしたいと思っているゆき子、こ
の〈思い〉を異にする二人が今後どのような展開を見せるのか、この興味
は、作者がどのように話を展開させていくのかという興味と重なっている。
〈二十四〉は次のように始まる。
富岡はだいぶ酔っていた。久しぶりに、軽々と心が解放された気持ち
で床柱に凭れたまま、安南語で唄をくちずさんでいる。
あなたの恋も、わたしの恋も、はじめの日だけは、真実だった。
あの眼は、本当の眼だった。わたしの眼も、あの日の、あの時は、本当の
眼だった。いまは、あなたも、わたしも、うたがいの眼・・。
そんな意味の、安南の流行り唄だった。ゆき子もだいぶ酔っていたの
で、うろおぼえの唄についてゆきながら、しみじみとダラットの生活をな
つかしがっている。
いまさら、思い出したところで、何もならないことだったが、遠く過
ぎた夢は、なつかしい。ゆき子は、足をのばして、炬燵の中の男の足をさ
ぐった。熱い足が足裏にさわった。
(258 ~259 〈二十二〉)
〈二十三〉と〈二十四〉の間に何があったのか、読者は報告されない。
ヒントは「富岡はだいぶ酔っていた」の一言にある。おそらく、ゆき子は
人臭い褞袍に着替えて湯につかって、運ばれた料理を腹に詰め込み、食欲
を満たした上で、富岡の唄を聞いていたのであろう。後の描写に「食い荒
した炬燵の上の赤い広蓋に、電燈が反射している」とあるから、食事をす
ましたことだけは確かである。
ゆき子の場合、腹がへっては戦はできぬで、まずは食欲を満たしてから、
性欲の発揮へと向かう。ダラットの場合も、日本に引き揚げて来てからも、
積極的に誘惑しているのはゆき子で、富岡はいつも受け身にまわっている。
ゆき子は、自分に積極的にアプローチしてくる男、伊庭や加野といった男
よりは、受け身型の富岡のような男に惹かれる傾向がある。これは好みの
問題であるから、相手が誠実だとか卑劣だとかいうことはあまり関係ない。
描かれた限りで判断すれば、ゆき子は〈大きな真白な枕〉や〈ラジオ〉を
プレゼントしてくれた〈大陸的な豊穣さ〉を備えた、優しい思いやりのあ
るジョオよりも、約束を守らない、事業に失敗した、埃臭い惨めな富岡に、
依然として魅力を感じていたということになる。
富岡の性的魅力に関して、作者は特別に記してはいないが、ふつうに考
えれば、伊庭よりも、ジョオよりも、富岡は性的な魅力を備えていたとい
うことだろう。金もない、野望もない、卑怯者の富岡に、もし性的魅力が
なければなんで伊香保までのこのことついてくるだろうか。
それにしても富岡という男は、おめでたいとしか言いようのない能天気
でもある。この男は酒を飲むと、一過性の楽天家になって、過酷な現実か
ら巧みに逃げだし、架空の世界に遊ぶ術を身につけている。酒を飲むほど
に悲観的になる者もいるが、富岡の場合は逆で、〈軽々と心が解放された
気持ち〉になっている。作者が触れていないので、よほど注意深い読者で
ないと失念してしまうだろうが、富岡がゆき子と伊香保に来て、酒を飲ん
で唄などうたっているこの時に、妻の邦子はがらんどうの部屋に一人残さ
れているのである。もし、富岡が一瞬でも邦子のことに思いをいたせば、
心が解放された気持ちになることなどあり得ない。しかし、作者は「久し
ぶりに、軽々と心が解放された気持ち」云々と書いている。この言葉をそ
のままに受け取れば、富岡は家で邦子と二人でいることに堪えられなかっ
たということになる。邦子が、すでに富岡とゆき子の関係を疑っているの
は明らかで、一度、夫に不信を抱いた妻が、夫に心を開いて優しく接する
ことができないのは当たり前のことである。富岡は家に漂う鉛のような空
気に堪えられず、ゆき子との伊香保行きを決断したことになる。
富岡が酔って口ずさんでいる安南の流行り唄の歌詞は、男と女の真実を
突いているからこそ唄い継がれていく。ゆき子は富岡の唄を耳にしながら、
ダラットでの悦楽の日々を懐かしく思い出している。ダラットでの日々は
〈遠く過ぎた夢〉であり、もはや二度と味わうことはできない。夢は覚ま
さなければ、地に足をつけた第二の人生を歩むことはできない。富岡とゆ
き子は過去の夢をそれぞれに違ったふうに引きずりながら、現実を生きて
いる。彼らに共通しているのは〈過去の夢〉を精算しきれずに、後ろ向き
に現実の地平を歩いていることである。

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