2010
01.06

林芙美子の文学(連載149)林芙美子の『浮雲』について(147)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載149)
林芙美子の『浮雲』について(147)

(初出「D文学通信」1353号・2010年1月6日)
清水正


作者は「不如帰で有名な伊香保というところが、案外
素朴で、いかにもロマンチックだった」と書き、あたかも
ゆき子がそういった気分に浸っているような描き方をして
いたが、娼婦まがいの稼ぎで自活をはかっているゆき子
の現実にしっかりと足を降ろした生活感覚を忘れてはな
らないだろう。


「褞袍を、お着替えになりましては、いかがですか?」
女中が褞袍を持って来た。ゆき子は、次の間ですぐ着替えて、女中に
手拭を貸してくれないかと言っている。富岡は湯にはいるのも億くうにな
っていた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまま消えてゆけるもの
ならば、このままぼおっと地の底に消えてしまいたかった。
「ねえ、お着替えにならない?」
「うん……」
「ねえ、着替えて、早くご飯にして貰いましょうよ。とても、私、おな
か、空いちゃったわ」
(258 〈二十二〉)
旅館の部屋に着いた富岡とゆき子の思いの違いを林芙美子は鮮やかに対
照的に描いている。富岡は女と死ぬためにわざわざ伊香保までやって来た
ことも、大きな宇宙のなかでは〈一粒の泡ほどの事件〉でしかないなどと
思って煤けた天井をみつめている。こんな富岡の思い自体が煤けていて、
彼が〈一粒の泡ほどの事件〉すら起こせないことは明白である。
作者は、外套のまま炬燵に寝ころんでいる富岡に対して、ゆき子がどの
ような思いを抱いていたかを記さない。作者がゆき子の思いに興味がなか
ったわけではない。ただ、女として成長したゆき子の眼差しに富岡を晒せ
ば、そこに甘えた、自分勝手な妄想家を見いだすだけのことになる。ゆき
子をリフルな女に描けば、どこまでも延々と続く〈腐れ縁〉をテーマにし
たかのような『浮雲』という作品自体が崩壊しかねない。作者はそれをま
ずは考慮したのではないかと思うほどである。
小舎を借りて、そこを商売の根城としたゆき子は、すでに日本に引き揚
げてきたばかりの、執拗に富岡を追い廻すだけの女ではなくなっている。
ゆき子はジョオと関係を結んだ時点で、事業に失敗した、優柔不断な、惨
めな男富岡と、以前と同じ気持ちで関係を持つことはできなかったはずで
ある。極端なことを言えば、ゆき子は自分の方から富岡を見限ったはずで
ある。しかし、作者はそういった設定を避けて、あくまでも富岡との関係
を続けるゆき子を選んだ。
この作者の選択によって、ゆき子は『晩菊』の女主人公きくの現実的な
打算と冷酷無情を身につけはぐってしまった。かつての恋人だった田部が
金を借りるためにきんを訪ねてくる。それを知ったきんは「急に寒気だつ
ような気」がする。『晩菊』の作者は「色めきたつ思いのない男女が、こ
うしたつまらない出逢いをしているということに、きんは口惜しくなって
来て、思いがけないもしない通り魔のような涙を瞼に浮べた」と書いてい
る。これが小説家の眼差しがとらえた女の真実の姿であろう。ゆき子は自
分の心の奥底に〈きん〉の思いをひた隠して、自然に見えるほど巧妙に演
技している。ということは、作者がそのようにゆき子を描くことにしたと
いうことである。
作者は「不如帰で有名な伊香保というところが、案外素朴で、いかにも
ロマンチックだった」と書き、あたかもゆき子がそういった気分に浸って
いるような描き方をしていたが、娼婦まがいの稼ぎで自活をはかっている
ゆき子の現実にしっかりと足を降ろした生活感覚を忘れてはならないだろ
う。ロマンチックな気分になっているのは、非現実的な〈心中〉などを頭
に描いている富岡の方である。否、この妄想家にはロマンチックの何たる
かを理解することはできなかったかもしれない。いずれにしても、ここで
作者は、富岡の内的世界を覗き見る眼差しをゆき子に封じてしまった。
富岡は何も湯に入るのが億くうなのではない。富岡は、生きていること
自体に疲労困憊している。「このまま消えてゆけるものならば、このまま
ぼおっと地の底に消えてしまいたかった」この思いが、富岡の一番正直な
思いであったろう。生温き人間は、劇的な事件の主人公になることはでき
ない。熱くもなく冷たくもない、かと言って適温でもない、あくまでも、
出るに出られぬぬるま湯にいつまでもつかって、そのまま自らの存在を消
してしまいたいという、ぬるい欲求である。
ゆき子は富岡の心の世界に目を向けない。ゆき子は、腹を空かしただけ
の女になって、富岡に着替えをすすめている。平べったい、卑しい顔をし
た、平凡な女が、今、「ねえ、着替えて、早くご飯にしてもらいましょう
よ。とても、私、おなか、空いちゃったわ」と、女と死ぬために伊香保に
やって来た男をせかしている。富岡は伊香保に来る前、渋谷の中料理店で、
人間のやっていることはすべて〈喜劇の連続〉だと思うが、この場面はそ
のことを端的に証していよう。死を考えている富岡と、ご飯を食べること
を考えているゆき子、この男と女がもし本当に心中などを図ったら、それ
こそ最たる喜劇となるだろう。
「うるさいなア。ゆっくりさしてくれよ。君、湯に這入って来たらいい
だろう」
ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放って、炬燵のそばへ
来ると、褞袍の袖の匂いをかぎながら、
「ああ、人臭い、人臭い……」と疳性に言った。
(258 〈二十二〉)
富岡とゆき子の関係は〈うるさいなア〉と〈人臭い〉の言葉に鮮やかに
表出している。先ほど引用した『晩菊』のキンの思いを重ねたらいい。
〈色めきたつ思いのない男女〉が〈こうしたつまらない出逢い〉をしてい
るということに、富岡は〈うるさいなア〉と癇癪を起こし、ゆき子は〈思
いがけもしない通り魔のような涙を瞼に浮べ〉る代わりに、褞袍の袖を嗅
ぎながら〈人臭い〉とヒスを起こすのである。ふつうの男と女の関係なら、
これで喧嘩別れして二度と逢うこともないだろう。『浮雲』の富岡とゆき
子、すなわち〈腐れ縁〉を全うするという使命を授けられた二人だからこ
そ、〈別離〉の定式を超えて、関係を続行させるのである。後は作者の腕
の見せ所ということになる。

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