2010
01.05

林芙美子の文学(連載148)林芙美子の『浮雲』について(146)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載148)
林芙美子の『浮雲』について(146)

(初出「D文学通信」1352号・2010年1月5日)
清水正


読者が知らされている富岡の過去は、ほんの一部で
ある。読者は富岡と邦子、富岡とニウの関係さえ、何ら
具体的なことを知らされていない。富岡の両親にいたっ
ては何もしらない。


読者が次に見せられるのは、旅館の一室で炬燵におさまった富岡とゆき
子の会話の場面である。
  「とても、いいところね。あなた、どうして、こんな処を知っているの。
昔、来たことあるの?」
ゆき子が甘えて聞いた。
「学生のころ、来たンだ……」
「とてもいい処だわ。ダラットみたいね。お金でもあって、しばらく、
こんなところでぼんやり暮してみたいわね……」
「うん、それでも、長くいたって、飽きちゃうだろう。二日くらいが関
の山だね……」
「そうね、そのくらいがいいところでしょうね……」

この会話場面にも膨大な省略がある。ゆき子に問われて、富岡は「学生
のころ、来たンだ……」と答えている。「……」で処理されてしまったが、
この沈黙場面に富岡と友人小泉(邦子の最初の夫)との親しい関係や、邦
子をめぐる熱いドラマが潜んでいた可能性もある。男と女のドラマにおい
て、お互いの過去のすべてをさらけ出し、そして新たな関係を結ぶという
のは、一種の幻想であって、その幻想を疑わずに新たな恋愛関係を結べる
者は、その一過性の幻想に酔いしれればいいということになる。
読者が知らされている富岡の過去は、ほんの一部である。読者は富岡と
邦子、富岡とニウの関係さえ、何ら具体的なことを知らされていない。富
岡の両親にいたっては何もしらない。富岡とゆき子はお互いに家族のこと
や、関係した人間については多くを語らない。描かれた限りで言えば、富
岡はゆき子の家族のことや伊庭との関係を知らず、ゆき子は富岡の両親や、
邦子と結婚するにいたったその詳しい経緯を知らない。
ゆき子は、富岡の「学生のころ、来たンだ……」という返答に、まるで
納得してしまったかのように、「……」の部分に踏み込んでいくような質
問を発することはない。ゆき子の関心は伊香保がダラットみたいに〈いい
処〉だ、ということに尽きる。ゆき子は〈今〉、好きな富岡と〈いい処〉
にいることがなによりの幸福であって、富岡がかつて誰と伊香保に来たか
などという、すでに過ぎ去ってしまったことなど関心のそとにある。
ゆき子は「こんなところでぼんやり暮してみたいわね……」と言う。富
岡は「二日ぐらいが関の山だね」と言い、ゆき子もそれに同意する。〈い
い処〉の伊香保で暮らすのが〈二日〉が限度だと言うのなら、ダラットで
の悦楽の日々は〈三年〉以上も続いたのであるから、それで十分ではない
かと突っ込みを入れたくなる。富岡が一足先に日本に引き揚げた時が、二
人の別れの時であったはずなのに、ゆき子は富岡の結婚の口約束をひきず
って、別れの時を誤ってしまった。もしゆき子に〈二日ぐらいが関の山〉
という、人間心理の機微が分かっていれば、そもそも日本に帰って来てか
らの富岡との腐れ縁も生じようがなかったはずある。ゆき子は、ジョオと
関係して新たな一歩を踏みだしてから、ようやく富岡に対して或る一定の
距離を持てるようになった。この場面での二人の会話は、一つの淵を乗り
越えた大人の会話となっていると言えようか。
狭い部屋だったが、窓の下は渓流になっているのか、そうそうと水音
がしていた。顔の赧い女中が、干柿と茶を持って這入って来た。床の間に
は、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版画の山水の軸がかかっている。
ありふれた部屋だったが、旅室で、しかも温泉町へ来たという思いがある
せいか、今朝感じていたほどの淋しさも、案外さらりとして来ていた。絶
望だの、何だのと言ったところで、こうした転換法さえ心得ていれば、す
ぐ、目のさきの気分は一転して、人間は愉しくなり、一時しのぎの気持ち
にもなるのだった。仄々として来た。不思議な心の波だと、富岡は、自分
でもおかしくなっていた。女と死ぬために、わざわざ芝居がかりの死の舞
台を求めるなぞということも、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事
件でしかないのだと、富岡は、外套のまま、ごろりと炬燵に寝転び、手枕
をしたまま、煤けた天井をみつめていた。
(258 〈二十三〉)
二人が通された部屋に、顔の赧い女中が干柿と茶を持って入ってくる。
作者の視点による客観的な描写で、女中の客に対する思いも、二人の女中
に対する思いもいっさい描かれない。床の間の籠型の花筒に活けられた小
菊、石版画の山水の軸は、富岡とゆき子の眼差しにも一度とらえられたも
のであるには違いないが、それは作者の視点からの報告といったさりげな
い描かれ方をしている。作者は、この客観的な部屋の映像に、富岡の思い
を重ねていく描法を採っている(まさに映画で使われる手法である)。
富岡は、今朝の〈淋しさ〉〈絶望〉が伊香保の温泉町の宿で気分一転、
仄々とした心持ちになった、その〈不思議な心の波〉をまざまざと感じる。
富岡は「女と死ぬために、わざわざ芝居がかりの死の舞台を求めるなぞと
いうことも、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないの
だ」と思う。こういった場面を読むと、スヴィドリガイロフがドゥーニャ
を追って八年振りにペテルブルクにやって来た時に、彼が感じた〈心理の
不思議〉とやらを想起する。スヴィドリガイロフは当初、婚約者のルージ
ンと闘ってでもドゥーニャを自分の女にするつもりでいたが、ペテルブル
クに着いた途端、そんなことはどうでもいいような気持ちになる。
林芙美子が、富岡の〈不思議な心の波〉を感じる場面を描くにあたって、
スヴィドリガイロフの〈心理の不思議〉を意識していたようにも思う。何
しろ富岡はドストエフスキーの愛読者であり、海千山千の好色漢スヴィド
リガイロフの延長線上に現れたニコライ・スタヴローギンの虚無や少女凌
辱や、その〈自殺〉に多大の関心を示していたのであるから。しかし、先
にも指摘したように、富岡における〈芝居がかりの死の舞台〉は、みるか
らに芝居がかっていてリアリティに欠ける。富岡のリアリティは、外套を
着たまま、炬燵に寝ころび、手枕をしたまま、煤けた天井をみつめている、
そのうらぶれた姿にこそある。〈女と死ぬため〉という現実味のない妄想
を抱いて、いつまでも煤けた天井を眺めている、その姿こそが、熱くも冷
たくもない生温い富岡に最も相応しい姿である。

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