【すべてはかりそめの夢】…チェーホフ『退屈な話』を読む(19)

清水正のチェーホフ論

空虚な実存の孤独と倦怠
さて、『退屈な話』を最後まで読み終えて、ぞっとするような孤独の風が吹いてくる。この〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチに襲う孤独の風を誰もとめることはできないだろう。彼には未だ妻もあり、娘もあり、その娘には夫もできた。しかしすでに彼のうちでは家族は崩壊している。彼は家庭の中にあっても一人であり、そして今、ハリコフでカーチャを喪失した孤独の直中に佇んでいる。彼は人間の誰にも、そして人間を超越した存在にも救いを求めることはしない。救いを求めることは、彼にとっては何か不誠実なことのように思えていたのだろうか。彼が唯一信じたのは科学である。しかし科学はこの世のすべての神秘を解きあかしてはくれない。が、にもかかわらず彼は神秘を前にして超越的な存在に跪拝することはできなかった。彼の誠実は結局「わからない」という言葉を発するしかなかったし、その次元にとどまることしかできなかった。彼は神を信仰することなど容易であり、そんなことで自分をたぶらかすことはできないと思っていたのかもしれない。
いずれにしても、彼は愛よりも孤独を選んだ男であり、愛を喪失した孤独とともに自らの死をたった一人ぼっちで受け入れようとしている。なぜ、彼はそんなにかたくなに〈愛〉を拒んだのだろうか。おそらく彼は、人間の愛のはかなさを、流れ去る時間の中ではどんなに強く烈しい愛もやがては色あせ消失していくことを不断に意識していたからであろう。彼は〈今〉を烈しく生きることはできない。彼は〈今〉を常に遠い未来から見る癖を持っている。その〈未来〉は死の時点であったり、千年後、一万年後、一億年後であったりする。すべては時の流れに呑み込まれ、徹底的に、容赦なく無化されてしまう。結局は完璧に無化されてしまう人生に何の意義を見いだすことができようか。彼の根本的気分にはこういった虚無と無常観がしみ込んでいる。
『ともしび』(『Огни』 「北方報知」一八八八年六月号に発表)で学生のミハイロ・シテンベルグは「かつてこの世には、フィリスチン人やアマレク人が生活し、戦いをまじえ、それぞれの役割をはたしていたんです、ところが今じゃ、彼らの跡さえも消えさってしまったんですからね。僕らだって同じことですよ。今でこそ僕らは鉄道を敷いたり、こうしてたたずんで、哲学をくりひろげたりしているけど、あと二千年もしたら、この土手だって、辛い労働のあとで今頃はぐっすり眠っている人たち全部だって、塵一つ残らなくなってしまうんだ。本当に、おそろしいことですよね!」と語り、技師アナニエフは「・・当時わたしは、まだ二十六にもなっていませんでしたが、それでももう、人生が無価値で何の意味ももっていないことや、すべてはかりそめの夢であり、幻であること、本質や結果から言って、サハリン島の流刑生活も、ニースの生活と何ら変るものではないこと、カントの脳髄と蠅の脳との差など、何ら本質的な意味をもって
いないこと、この世ではだれ一人正しくもなければ、わるくもないこと、すべてはとるにたらぬ、くだらぬものであり、どうなろうと一向かまわないのだということ、などをちゃんと承知していましたよ。わたしは、自分が便々と生きていながら、わたしを生きて行くように仕向けている何か眼に見えぬ力に、そのことで恩を着せているような気になっていたものです。おい、どうだ、俺は人生になんぞ何の値打ちもみとめていないんだが、こうして生きていてやっているんだぞ、と言わんばかりでしたよ!」と語る。
鉄道の施設工事に携わる技師アナニエフと助手ミハイロ・シテンベルグのこういった思いは、老教授ニコライ・ステパーノヴィチにもそのまま受け継がれている。人間を過ぎ去りゆく時間上で把握すると、どんなに情熱的に振る舞う瞬間があっても、やはり人生は虚しく無価値なもののように思えてしまう。チェーホフの人物たちは不断に時間を意識した存在であり、時を忘れて生そのものの饗宴にひたりきることはできないのである。〈今〉という〈生〉に没頭し熱狂するディオニュソス的生存は、チェーホフの人物にあってはほとんど無縁である。彼らは不断に未来の或る一点から現在の生を眺めており、生に対してクールな姿勢を崩しきることができない。
チェーホフはニーチェのように時間を永遠回帰的にとらえることはなかった。もし時間を永遠に繰り返す円環的なものとしてとらえていれば、〈今〉は単なる通りすぎてしまうものではなく、無限の過去と無限の未来を内包する永遠の今と感じられたはずである。否、チェーホフにあっては永遠回帰する〈今〉ですら、虚無と無常を払拭することはできなかったかもしれない。永遠回帰する時間など無限の退屈を感じさせるだけのものであるかもしれない。
『ともしび』の中でわたしが最も印象深く思った叙述場面は、技師アナニエフがものにしようとした女が遠くの海を無関心そうに眺める、その姿をとらえた時の場面である。
まるで、海も遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって、何か気重なことを考えているらしく、近くに見知らぬ男性がいるのを感じると殆どすべての女がうかべる、あの、ことさら無関心をよそおった、用ありげな表情さえ、見せないんです。
小説を読み進んでいけばわかることだが、この女がことさら魅惑的な存在であったわけではない。ただ、この瞬間、アナニエフの眼差しがとらえた女が、アナニエフ自身の虚無と退屈を限りなく反映し、同時に作者チェーホフのそれを反映していることは確かであろう。世界の事象を見飽きてしまった、聞き飽きてしまった、考え飽きてしまった、というこの限りなく退屈な感覚が見事に一人の女を通して端的に描写されている。
チェーホフにとって人生とは孤独と倦怠(アンニュイ)であったのではないか。二十歳前後の頃、わたしの口癖は「どうでもいい」であった。このわたしの口ぐせを完璧に剽窃した高校時代の一年後輩の男は三十歳にならずしてこの世を去った。わたしは「どうでもいい」という虚無の卵を熱く抱いて書きまくる人生を生きている。虚無、退屈、倦怠、そんなものは当たり前のことだ。何もわからない・・当たり前のことだ。ラーギン医師の「どうでもいい」(Всё равно)は、ドストエフスキーの人神論者たちが口にした「すべてが許されている」にも通じている。何をしても許されているし、何もしなくてもいい。すべてがいいのだ。しかし、チェーホフの人物には、ドストエフスキーの人物たちに見られた熱狂はない。「どうでもいい」という気分はゆったりしているし、どこかしら気だるい感じをともなっている。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』のヤルタの海岸の、穏やかな波間に浮かぶ〈空き瓶〉が脳裏に焼きついて離れない。
中身が空っぽの、何もわからない人間の生存、それをわたしはアンニュイな気分の直中にただよう〈空き瓶の実存〉と名付けておきたい。
何が善であり、悪であるのか。善悪観念の磨滅のはてにニコライ・スタヴローギンの虚無の実存があった。しかしまだ彼はドストエフスキーの熱狂的な舞台の中でドラマチックに生きていた。彼は全能の、沈黙し続ける神に成り代わって十二歳のマトリョーシヤを実験の材料にするほどの幼稚さを発揮していた。彼の先生であったステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーはヨーロッパの最新の学問を身につけてロシアに帰国しながら、弟子たちに何ら生の指標を示すことができなかった。彼はソクラテス気取りでロシアを、ロシアの神を、ロシアの検閲制度を語った。しかし彼の饒舌は単なる暇つぶしの次元を超えることはなかった。結局、彼の饒舌はニコライ・ステパーノヴィチの「何もわからない」に帰着する。チェーホフの描く老教授はもはや小説の中で無意味な饒舌を展開することはない。彼は〈退屈〉という自分の気分と、〈何もわからない〉という自分の得た単純な結論に誠実であろうとして、何によっても癒されることのない孤独な荒野にひとり佇む途を選んだ。このニコライ・ステパーノヴィチの孤独な姿が、現代人の実相をあますところなく伝えているように見える。(2003・12・26~2004・1 ・12)

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