『清水正・ドストエフスキー論全集』第一巻~第四巻 第五巻は来年刊行
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林芙美子の文学(連載140)
林芙美子の『浮雲』について(138)
(初出「D文学通信」1344号・2009年12月28日)
清水正
作者は富岡に関して「自分は自分なのだと、承知していな
がら」云々と書いているが、富岡はいったい自分の何を承知
していたのだろうか。富岡における〈甘ったれた浅はかな慾
望〉は、何もゆき子を死の道づれにしたいと思ったことに尽き
るのではない。
富岡は、こうした会話のがいねんに、やりきれなくなっていた。こう
して、逢ってみても、何も収穫がないのだ。そのくせ、人々の魂の上に、
敗者の心の乱れや、その日暮しのあくせくした思いだけが、黒雲のように
のしかかって来ている。自分は自分なのだと、承知していながら、何も知
らぬ相手まで、自我のなかに引きずり込んで、道づれをつくりたいという
甘ったれた浅はかな慾望が、富岡には、自分でも解らなかった。何か収穫
があるような錯覚で、日々を生きているだけの自分が、ずるい人間のよう
にもかんがえられて来る。(255 〈二十二〉)
「こうした会話のがいねん」の意味するところが明確でないが、これは
「こうした会話のやりとり」ぐらいに理解しておけばいいだろう。富岡は
ゆき子との会話に「何の収穫もない」と思うが、いったい彼は何をもって
〈収穫〉と考えているのだろうか。
読者に富岡の思いが今ひとつ明確に伝わってこないのは、富岡が何を望
み、何をしようとしているのかがはっきりとしないからである。表面的な
次元でいっても、なぜ彼が農林省を辞めたのかがはっきりしない。父親の
仕事を手伝うためとかいう理由が書かれていたが、そもそも富岡の〈父
親〉の存在が希薄というか、まるで描かれていない。年齢、職業はもとよ
り、その性格や顔かたちなど、作者は何ひとつ描いていない。富岡の〈
父〉や〈母〉はまるで亡霊のように富岡家に住みついているらしく、その
姿を読者の前に現さない。
特に〈父親〉は、初めから存在していないような描かれかたで、どんな
に眼を凝らしてみても、その具体的な姿は見事なほどに浮かんでこない。
富岡の父と母が具体的に描かれず、さらに富岡家に嫁いだ邦子と姑たちと
の関係が描かれないことによって、富岡家での富岡の生きた姿が浮かんで
こない。これでは、まるで富岡家自体が幽霊屋敷のようなもので、富岡は
その幽霊屋敷から現れ出てはゆき子と逢瀬を重ねる亡霊のような存在とな
っている。虚無と絶望の淵に佇む富岡は、まさに生きながらにして死んで
いる亡霊のような存在と言えるが、富岡自身にそういった明晰な自覚があ
るわけではない。
富岡のような男がゆき子との逢瀬や会話に〈収穫〉を期待していること
自体が滑稽の極みである。現実における富岡は、事業に失敗した男という
烙印を押されているから、もしその汚名をはらそうとすれば、その地獄か
ら這い上がってみせなければならない。再び事業を再開する野心があるな
ら、失敗の原因を徹底して検証し、具体的な計画を立て、それを実行に移
すエネルギーを持ち合わせていなければならない。しかし、ゆき子の前に
現れた富岡は、二度と再び立ち上がることはないだろう敗残者としての相
貌しか見せていない。〈敗者の心の乱れ〉〈その日暮しのあくせくした思
い〉を躯全体から発散しているような富岡に再生の扉は固く閉じられてい
る。
作者は富岡に関して「自分は自分なのだと、承知していながら」云々と
書いているが、富岡はいったい自分の何を承知していたのだろうか。富岡
における〈甘ったれた浅はかな慾望〉は、何もゆき子を死の道づれにした
いと思ったことに尽きるのではない。友人と結婚していた邦子を奪ってま
で結婚したのも、ダラットで女中のニウを愛人にしたのも、農林省を辞め
て材木の商売に手を染めたのも、すべて〈浅はかな慾望〉に駆られてのこ
とである。
「何か収穫があるような錯覚で、日々を生きているだけの自分が、ずる
い人間のようにも考えられてくる」と富岡は思う。錯覚で生きているだけ
の人間は〈ずるい人間〉というより、単に情けない、みじめな人間である。
富岡は自分が求めている〈収穫〉を、まずははっきりと認識する必要があ
る。富岡は敗戦後の混乱期に材木事業に乗り出したのであるから、彼が
〈収穫〉の言葉に託していたのは〈金〉ということになる。金儲けを第一
に考えていたのであれば、事業に失敗した富岡は、決定的な敗残者という
ことになる。