清水正のチェーホフ論

【死の孤独と死を超えた孤独】…チェーホフ『退屈な話』を読む(18)

〈わが宝〉カーチャとニコライ・ステパーノヴィチのただならぬ関係
「ニコライ・ステパーヌィチ! これ以上、こんなふうには生きていけませんの! もうだめなんです! お願いですから、早く、今この場で仰しゃって下さい、・・あたしはどうすればいいのです? どうすればいいか、仰しゃって下さい!」
「わしに何が言えよう?」わが輩は当惑する。「何も言えないんだよ。」
「お願いですから仰しゃって!」息を切らし全身をふるわせながら、彼女がつづける。「嘘じゃありません、あたしもう、こんなふうには生きていけません! へとへとなんです!」
彼女は椅子に倒れてわっと泣きはじめる。頭をのけぞらせ、両手をもみしぼり、足を踏み鳴らす。帽子が頭からすべり落ち、ゴム紐にぶらさがって揺れる。髪が乱れた。
「助けて下さい! 助けて下さい!」と彼女が哀願する。「もう生きていけないのです!」
彼女は旅行用の手提袋からハンカチを取り出す。その拍子に何通かの手紙がすべり出て、膝から床へ落ちる。それを床から拾ってやりながら、わが輩は中の一通にミハイル・フョードロヴィチの筆跡を認め、何気なく《熱愛す……》という言葉の切れはしに眼をとめる。
「お前には何も言えないんだよ、カーチャ」とわが輩は言う。
「助けて下さい!」わが輩の手を掴んで接吻しながら、彼女はむせび泣く。「おじさまはあたしのお父さま、ただひとりの親友じゃありませんか! おじさまは聡明で、教育があって、長いこと生きてらしたじゃありませんか! 前には先生だったじゃありませんか! 教えて下さい、あたしはどうしたらいいのす?」
「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」
わが輩はめんくらい、嗚咽に心を打たれて途方に暮れ、立っているのさえやっとである。
なぜ又もやカーチャの登場となるのか。カーチャはいったい何をニコライ・ステパーヌィチに求めているのか。カーチャにとってニコライ・ステパーヌィチは養父以上に先生であり、人生の指針を示してくれなければならない存在であったのだろうか。先に老教授はカーチャに「どうすればいいの?」と問われて「わが輩は何と答えるべきかわからない」と率直に表明していたはずである。否、これは老教授の内心の言葉であり、読者には伝わってもカーチャには伝わっていなかった。カーチャがわざわざハリコフにまて老教授を訪ねてきて「どうすればいいか、仰しゃって下さい!」「助けて下さい!」と哀願しているのはただごとではない。ここに引用した場面を何回か繰り返し読んでいると、ニコライ・ステパーヌィチとカーチャのただならぬ関係が見え隠れしてくる。
『退屈な話』はもちろんチェーホフの書いた小説であるが、設定は老教授ニコライ・ステパーノヴィチの手記ということになっている。厳密に言えば「ある老人の手記より」というサブタイトルがついているから、〈手記〉そのものとは言えないかも知れないが、ここではあまり神経質にならずにニコライ・ステパーノヴィチの書いた〈手記〉と見なして批評をさらに展開していくことにしたい。
〈手記〉は〈告白〉の意味も兼ねている。この手記の中でニコライ・ステパーノヴィチはひと言も神への信仰については触れていない。キリスト教国に生きる者が〈手記〉(告白)をしたためるとなれば、とうぜん〈神〉を読み手として想定していることになる。彼はいったい誰に向かって〈手記〉をしたためていたのだろうか。彼は妻や、娘や、そしてカーチャをこの〈手記〉の読み手として想定していたのだろうか。この〈手記〉全編を何度読み通しても、彼が妻子やカーチャを読者に想定していたとは思えない。それ以上に、彼が神を意識していたとも思えない。まるで彼は、人格神を崇拝しない国の小説家のように、ごくふつうの一般読者を想定してこの〈手記〉をしたため続けたような感じである。
さて、話を元に戻そう。わたしの直観は、もう一度カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの関係を洗いなおしてみろ、と囁く。この〈手記〉が六十二歳の〈現在〉において書かれていたのだとすれば、ニコライ・ステパーノヴィチが七歳のカーチャの後見人になったのは十八年前の五十四歳の時である。二人の歳の差は四十七歳、まさか男と女の関係に発展するなどとは、ふつうに考えればあり得ないことである。しかし男と女の関係を普通に考えてみても何の足しにもならないことも確かである。ニコライ・ステパーノヴィチは〈手記〉の主体であるから、何でも書こうと思えば書けるし、隠そうと思えば何でも隠せるわけである。ドストエフスキーの場合もそうであるが、十九世紀のロシアの小説家は男と女の〈濡れ場〉を具体的に描くことを禁じられていた。その代わり、彼らは直接的にではないあらゆる方法を駆使してその禁じられた〈濡れ場〉を描く努力を惜しまなかった。
『罪と罰』で言えば、ラスコーリニコフとソーニャ、ドゥーニャとスヴィドリガイロフ、ラズミーヒンとプラスコーヴィヤ(ラスコーリニコフの下宿の主婦)、プラスコーヴィヤとチェヴァーロフ(事件屋的存在でプラスコーヴィヤの情夫であった)、ソーニャとイヴァン・アファナーシェヴィチ閣下の肉体関係が、ただの一行も直接的には描かれていないにもかかわらず、熟読するとその〈描かれざる濡れ場〉が浮上してくる。
『悪霊』では、ニコライ・スタヴローギンとマリヤ・シャートヴァ(彼女は形式的にシャートフと結婚したが、ニコライの子供を身ごもって故郷スクヴァレーシニキへと帰ってきた)、マトリョーシャ(十二歳の少女。彼女は全能の神に化身したニコライの〈実験動物〉となった)、リーザ(貴族の令嬢で、暴漢に殴り殺される前夜、ニコライの別荘で不倫の関係を持った)、ステパン・トロフィーモヴィチとニコライ・スタヴローギン(ニコライが十歳の頃、家庭教師であったステパンと肉体的な関係を持つ)、アントン・Г(『悪霊』の語り手、国家から派遣されたスパイでステパン氏とホモセクシャルな関係を結んで〈個人秘書〉となり、絶対的な信頼関係を取り結んだ)・・などの肉体関係のすべてが一切描かれることはなかったが、読みを深化させ、想像力を働かせることによってこれらの〈濡れ場〉は鮮明に再構築されることになる。チェーホフもまたこの小説において、ニコライ・ステパーノヴィチとカーチャの秘密の関係を完璧に省略し
た可能性がある。
カーチャがニコライ・ステパーノヴィチに向かって「あたしはどうすればいいのです? どうすればいいか、仰しゃって下さい!」と迫るように懇願し、「助けて下さい! もう生きていけないのです!」と脅すかの如き哀願を繰り返したのは、二人の仲が養父と養女、先生と教え子以上の男女関係を取り結んでいた可能性を暗示している。カーチャがニコライ・ステパーノヴィチの同僚、五十年輩の文献学者ミハイル・フョードロヴィチに熱愛されプロポーズされていることは既に明白である。カーチャがニコライ・ステパーノヴィチに懇願しているのは、単なる人生の指針を自分に示せというようなことではない。歳の差や、養父・養女の関係を超えて結びついた相手ニコライ・ステパーノヴィチに、カーチャは自分が彼にとってどのような存在であったのかを真剣に問いただしている。そのように考えたほうが、ここでカーチャが発している言葉は理解しやすい。若い頃に演劇に熱中した烈しい性格の女カーチャは、死期が迫っている老教授、否、男としてのニコライ・ステパーノヴィチに彼と自分との関係が何であったのかを問うているのである。
ニコライ・ステパーノヴィチの答えは「わからない」である。まさに彼は『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを地で行っている感がある。ステパン氏が自分の教え子たちに何一つ明確な指示を出すことができなかったように、ニコライ・ステパーノヴィチもまた生涯の終わりにあたって養父としても、先生としても、また男としても、カーチャに何一つ確固たる指示を与えることができなかった。
「カーチャ、朝御飯でも食べないか。」むりに笑顔を作りながら、わが輩が言う。「泣くのは
沢山だよ!」
そしてすぐに声を落して言い足す。・・
「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ。……」
「せめてひと言、ひと言でいいんです!」わが輩に手を差しのべながら、彼女は泣きじゃくる。
「あたしはどうしたらいいのです?」
「ほんとうに、おかしな娘だね。……」とわが輩はつぶやく。「わからないんだよ! お前の
ような利口な娘が、・・どうしたんだい! 突然、泣き出したりして……」
カーチャの「あたしはどうしたらいいのです?」の問いに、ニコライ・ステパーノヴィチはむりやり笑顔を作りながら「朝御飯でも食べないか」としか答えられない。ニコライ・ステパーノヴィチの「わしはもうすぐ死ぬよ」の決定的な告白に、カーチャは泣きじゃくりながら「あたしはどうしたらいいのです?」を繰り返すばかりである。不思議な会話である。まったく二人の間に一本の綱が張られていない。心と心で結びついた一本の綱が存在しない。二人は今、最も近い距離にありながら、心はばらばらである。カーチャの懇願は宙をさまよい、ニコライ・ステパーノヴィチの死の告白は実感を伴わない。カーチャはいったい何を望んでいたのだろうか。ミハイル・フョードロヴィチの熱愛以上の愛をニコライ・ステパーノヴィチに求めたのだろうか。つまり〈死〉の告白ではなく、〈愛〉の告白を・・。今、明白になったのは二人の心の行き違いだけである。
カーチャは別離を決意する。「沈黙が訪れる。彼女は髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくりと行なわれる。顔も胸も手袋も涙でぬれているが、表情はもう乾いていて、きびしい」・・チェーホフは、否、ニコライ・ステパーノヴィチは女が別れを決意した、その表情と一連の動作を的確に端的に描写している。こうなったら、相手がどのような引き止めの言葉を発しても無駄である。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャが、もうすぐ死ぬであろう自分よりも不幸であることに羞恥をおぼえる。彼は「同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって、生涯の日没になって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!」と書く。〈隠れ家〉を知らない魂は、永遠に彷徨っていなければならないのか。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャの魂の〈隠れ家〉となることはできなかった。なぜなら彼もまたその〈隠れ家〉を知らないからだ。
「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩は言う。
「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩は言う。「ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」
「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
「どこへ?」
「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
「そう。長くいるのかね?」
「わかりませんわ。」
カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩はこうたずねたいと思う。しかし彼女はわが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいて
いった。……さらば、わが宝よ!
ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャとの別離を、自分の死以上のリアリティをもって伝える。カーチャは彼にとって〈わが宝〉だったのだ。どうして彼は〈わが宝〉をわが胸にしっかりと抱き締めることができなかったのか。人間はわけもわからずこの世に生まれ、わけもわからずひとり死んでいかなければならない。こんな孤独はない。しかし、今、ニコライ・ステパーノヴィチはその死の孤独以上の孤独を噛みしめている。〈愛〉は〈死の孤独〉を乗り越えさせる力を持っているのではないか。このことさえも「どうでもいい」(Всё равно)と言い切れるのか。

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