2009
12.10

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載38)

寺山修司・関係

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寺山修司とモチーフ
五十嵐 綾野

寺山修司の作品にはよく登場するモチーフがある。例えば、柱時計、仏壇、櫛、などである。短歌、演劇、映画などに自然に登場している。それらのモチーフを見るたびに、「寺山修司」をイメージする。
映画「田園に死す」の中で、柱時計は「家」の象徴であると考えられる。映画の冒頭に、鳴りっぱなしになった柱時計が出てくる。それを修理するために、壁から外そうとすると、母親が物凄い剣幕で反対をする場面がある。
壊れた柱時計は修理すれば元に戻る。表面的にはそうかもしれない。しかし、直した柱時計は以前と同じ柱時計ではない。鳴りっぱなしの柱時計は、閉塞的な「家」という空間に異変が起きているという警告音だ。この「家」で何かが変わろうとしている。母親の心もそれに合わせてざわついているのだろう。だからこそ、母親は柱時計を修理することを渋ったのだ。
母親の息子である、主人公の少年が腕時計を欲しがる。すると、母親は反対する。時計は家の柱にかけておくのが一番良いのであって、外に持ち出すものではないと、母親は無理やり説得をしようとする。少年が、外の世界に生きることを拒んでいるかのようである。柱時計に支配された「家」にいるということは、永遠に「家」の外には出られないということだ。これは成長していく少年のことを考えると恐ろしいことになる。
柱時計から逃れ、自分専用の腕時計を持たなければ永遠に閉塞的な「家」から成長することができない。最終的に、少年は、強姦されることにより腕時計を手に入れることになる。
この映画によく登場するモチーフの二つ目に、仏壇があげられる。母親が必死に仏壇を磨いている場面が出てくる。仏壇を磨くということは、常に亡くなった先祖(映画では父親)の存在を匂わせることにも繋がる。隣家では、家族揃って先祖代々の遺影を磨いている。一つの儀式のようである。姿こそ見えないが、私達は「血」に縛り付けられている。仏壇や遺影は「家」と「血縁」を象徴しているといえる。
映画の中では、本来は家の中にあるべき、仏壇や鏡台が恐山や湖に置かれている。「家」の内と外では絶対的な隔たりがある。このようにすることによりその境界線が曖昧になる。時間や土地がどんなに変わっても、生まれ故郷から遠く離れたとしても、自分が生まれ生きているかぎり、「血」から逃れることができない。
このような、寺山がよく使うモチーフの数々に象徴されているものは「家」や「掟」といったものである。
映画「さらば箱舟」においては、本家の老人が村中の柱時計を集めて穴に埋めるという場面が出てくる。柱時計は時間だけでなく、それぞれの家の基準で動いている。村という共同体には「掟」が必ず存在している。それを本家の老人が土に埋めるということは、権力を封じ込める意味があるのではないか。力の拡散を防ぐためである。「村に二つも時計があったらどちらを信用したらいいのかわからない」という言葉にも表れている。
やがて本家が中心という土俗社会に近代社会が浸食していく。絶対的な力を持つ本家の柱時計が止まることによって異変は始まる。村には電線が張り巡らされ、村人は別の土地へと移るようになる。本家が莫大な遺産を見つけても、価値観が変わってしまった中では、村の中心として新しい村を作りなおすこともできない。村には誰もいなくなり、共同体は崩壊する。
近代化のスピードはすさまじく速い。物語は突然百年後の世界になる。近代化した都市で生きるかつての村人たち。その村人たちが集まって記念撮影をする所で物語は終わる。写った写真は百年前の服装に変わっている。セピア色の写真からわかることは、死の影は永遠に変化しないということである。土俗社会も近代社会も根本的には何も変わっていないのである。どちらもやがては過去の遺物になっていく。

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