清水正のチェーホフ論

【死の気配】…チェーホフ『退屈な話』を読む(15)

老教授は「雷鳴と稲妻と雨と風の入り乱れた、俗に雀夜と呼ばれる恐ろしい夜」に、ふと眼をさまし、いきなり床から飛び起き、今すぐ突然死ぬような気がする。
手早く明りをつけ、ガラス壜からじかに水を飲んで、開け放した窓辺へ急ぐ。戸外の天気はすばらしい。乾草の匂いと、もう一つ何かとてもいい匂いが鼻をつく。柵のぎざぎざと、窓のそばの眠そうなひょろ長い木々と、道と、黒ずんだ帯状の森がみえる。空には静かな、皎々たる月がかかり、雲ひときれない。木の葉一枚そよがぬ静けさである。万物がわが輩を眺め、わが輩の死に行く気配に耳傾けているような気がする。……
枕の下に頭をうずめ、眼を閉じて、今やおそしと待ち構える。……背中がぞくぞくする、まるで背中が体の中へ吸い込まれるようだ。わが輩は、死がてっきりうしろから、そっと忍び寄ってくるような感じに襲われる。……
「キヴィ・キヴィー!」突然、夜の静けさを破って、かぼそい声が聞える。その声がどこでするのか、わが輩にはわからない。わが輩の胸の中か、それとも通りのほうなのか。
「キヴィ・キヴィー!」
ああ、何という恐ろしさ! もう一度水を飲みたいのだが、今はもう眼をあけるのが恐ろしく、頭をあげるのがこわい。それはえたいの知れぬ、動物的な恐怖で、わが輩はなぜ恐ろしいのか見当がつかない。生きていたいためなのか、それとも新しい、未知の苦痛がわが身を待ち受けているためなのか。
「わたしが死んでも世界は依然として世界であり続けるのか」古くて新しい問いを人間は何回となく繰り返してきた。世界の中に人間は生まれ、そして世界の中へと死んでいく。一人の人間が生まれようと死のうと世界は無傷のままに存続する。しかし誰がそれを証明するのか。
子供の頃、素朴に時間はどこに居ようと同一であると思っていた。しかしその絶対的な時間概念はすぐに崩れた。ひと言で〈現在〉と言っても、その〈現在〉は誰にも同一の〈現在〉ではない。時間は時間意識と切り離して考えることはできない。たとえば意識不明で三十年間床に伏している者にとって、その物理的な〈三十年間〉は〈無〉に等しいだろう。楽しいときの一時間と苦しいときの一時間は、物理的に〈一時間〉ではあっても時間意識の次元では瞬時に感じられたり、長く感じられたりする。蝉の〈一週間〉と人間の〈一週間〉を同じ物理的時間の地平において考えることは愚かなことである。つまり様々な時間意識、感覚があるのだと考えたその時から、わたしのうちでは時間の絶対的同一性は崩れたのである。自分が死ねば同時に世界は消滅するという考えもある。しかしこれも自らに証明することはできない。
死んでも魂は存続し、その魂が生前と同じ意識と感覚を保持しているのならば、その魂が自らの死後の世界を認知するということもあり得るだろうが、未だ生きているわたしがそれを認めることもできない。ニコライ・ステパーノヴィチは死後の魂に関して何も確信的なことを述べていない。彼はそんな問題よりは科学の未来を信じており、そこに救いを見いだそうとさえした。しかしすでに、科学信奉が余命半年の老教授をなんら慰めないことは実証済みである。彼は日々いらだち、邪悪な感情に襲われ、孤独を深めるばかりである。そして、ここに書かれたように、ついに動物的な死の恐怖に捕らわれる。忍び寄る死の恐怖を逃れる術はない。彼はどうしたらいいのかわからない。ふと「家族の者を呼ぼうか」と思うが、すぐに「いや、その必要はない。部屋へ入って来た時、妻やリーザが何をするか知れたものではない」と考え、枕の下に頭をうずめ、眼を閉じて、今やおそしと待ち構える。
死の気配を感じながら、家族を呼ぶ必要がないと考えたのはどういうことだろうか。彼はこの時どのみち死ぬのであるなら、家族を呼んでも仕方がないと諦めていたのだろうか。否、死を前にしてそんなに冷静な判断などできるわけもないだろう。やはり彼は、妻や娘を本当には愛していなかったのであろうか。死の恐怖に戦きながら「妻やリーザが何をするか知れたものではない」という不安の方が強かったのは、彼がすでに妻子と信頼関係で結ばれていなかったことの何よりの証である。こんな恐ろしい孤独はない。家族と一緒に住んでいながら、その家族に死以上の不安を抱くというのは生きながらの地獄ではないのか。
それにしても老教授が耳にした「キヴィ・キヴィー!」という声はいったい何なのであろうか。彼はその声の正体が分からない。読者にも分からないように手記は書かれている。彼の内なる狂気の叫びなのか、それとも外部から発せられている正体不明の声なのか。やがて、その声は精神的に追い詰められたリーザのうめき声であることが判明する。
「助けてやって下さい、助けてやって!」と妻が哀願する。「なんとかしてやって下さい!」
わが輩にどうすることができよう? 何ひとつできはしない。娘の心に何か重苦しいものがあるのだが、わが輩は何もわからない。何も知らない。ただこう呟くより仕方がない。・・
「なんでもないさ、なんでもないさ。……すくに直るよ。……お休み、……お休み……」
わざとねらったように、庭先で突然、犬の遠吠えがはじまる。はじめは低く、はばかるように、それから高く、二匹声をあわせて。わが輩はこれまで、犬の遠吠えやふくろうの鳴声などに縁起をかついだことは一度もないが、この時ばかりは心臓がぎゅっと締めつけられ、急いでこの遠吠えを自分なりに説明する。
『くだらんことだ……』とわが輩はは思う。『あるオルガニズムの、他のオルガニズムに及ぼす影響だ。わしの強度の神経的な緊張が、妻やリーザや犬に伝染した、ただそれだけのことだ。……予感といい前兆というのも、こうした伝染で説明がつく。……』
娘が精神的に追い詰められ「キヴィ・キヴィー!」という訳の分からない声を発しているというのに、ニコライ・ステパーノヴィチの反応は余りにも冷静すぎはしないだろうか。「わが輩にどうすることができよう?」・・こんな客観的な反応を、最初に示す父親があるだろうか。苦悩の呻きに対し、心で対応するのではなく、かなり理性的な次元で反応している。「娘の心に何か重苦しいものがあるのだが、わが輩は何もわからない」この冷たい反応をどのように理解したらいいのだろうか。リーザが苦しんでいる、その理由を分からない読者は一人もいないだろう。ニコライ・ステパーノヴィチが、リーザの恋人をよく思わず、顔を合わせる度に苦虫をつぶしたような表情をしたり、皮肉を飛ばしたりすることがリーザの苦しみの最大の理由であって、それ以外のことなど考えられない。こんな単純なことが分からない父親がこの世に存在するわけもない。
しかし不思議なことに、感動的な講義を三十年にもわたって続けてきた老教授が、こと娘の苦悩
に関しては「わが輩は何もわからない」というような片づけ方をしている。
「何も知らない」・・どうして彼はこのような言い方でことを済ませようとするのだろうか。ここには先にも指摘したように、彼の文章の運び方のくせが見られる。「わが輩は何もわからない」と書いている彼は、文字通り何もわからないのではない。むしろ彼はよく知っている。知っていながら、まずは「何もわからない」と書いてしまうのだ。そして書いてしまった後で「あるオルガニズムの、他のオルガニズムに及ぼす影響だ」と説明するのである。彼の〈強度の神経的な緊張〉がリーザに伝染したのだという説明は、何よりもリーザの「キヴィ・キヴィー!」の奇矯な声を出す発作症状の的確な説明となっている。
これだけきちんと理由を説明できながら、「わが輩にどうすることができよう」「わが輩は何もわからないと書ききってしまうのはどういうことなのだろう。今までの彼の記述を読めば、彼が妻や娘に対して孤立していることは分かる。長年連れ添った、かつて烈しく愛した老妻はすっかりリーザとグネッケルの味方であり、彼の心を察してはくれない。今や彼の気持は妻や娘よりは養女のカーチャに傾いている。そのカーチャとて、彼の全面的な理解者ではないし、同伴者でもない。彼は孤独であり、孤立している。彼は自分の死は自分で引き受ようとしている。その分、妻や娘に対しても冷酷なところがある。ひとは自分のことで精一杯のときに、他人に対して寛容で優しい態度をとることができない。しかも彼は先刻まで自分が死ぬかもしれないと感じていたのだ。そういう切羽詰まった時に、たとえ娘とはいえ、親身になることができなかったということもあろう。換言すれば、彼は他者に対して微塵の幻想も抱いていないということである。
妻も娘も、そしてカーチャも、彼にとっては他者であり、彼の孤独の領域に一歩を踏み込むことを許されない存在なのである。彼は、たとえ死後における魂の永世を信じていたにしても、その魂が絶対帰依するような対象は認めないのである。彼が墓場での眠りに落ちたとき、その眠りの中に現れる〈幻像〉(видение)をすら彼は認めはしなかったであろう。それほどに彼の孤独の壁は頑強であり、自分だけの領域を頑に守っている。なぜ、彼はそれほどに自分の領域にこだわるのであろうか。何か自分以外のものを認め、彼固有の領域に招き入れることは、彼の自我を解体させるほどに脅威と感じられていたのであろうか。
ニコライ・ステパーノヴィチは学者として数々の学問的業績を積み上げ、社会的功名を遂げてすら、依然として子供のようなナイーヴさを持ち合わせている。彼が他者に冷たく接するのは、他者と或る一定の距離を保つ必要があったからかもしれない。彼は孤独を解消しようとはしない。孤独を解消しようとして他者を受け入れることは、自分が長年にわたって築き上げてきた自我の城を自ら壊すことになることを知っているからである。彼は孤独のただ中にあって、孤独の究極(死)を受け入れようとした。死後の世界に何の望みも抱くことのできない者にとって死は恐怖以外のなにものでもない。
さて、再び老教授が耳にした「キヴィ・キヴィー!」の声に注目しようではないか。この声は不気味であった。老教授の耳にこの声が得体のしれない恐るべき声として聞こえてきたとき、読者もまた同じような不安な感覚をもってこの声を耳にしていた。老教授が説明するように、彼の強度の神経的な緊張がリーザのオルガニズムに伝染したというのなら、リーザは父親が死の恐怖に戦いていたと同様な恐怖を父親と同時に味わっていたということになろう。とすれば、ニコライ・ステパーノヴィチが孤独に閉じこもれば閉じこもるほど、妻や娘もまた彼と同様の孤独感を味わうということになる。つまり彼らは孤独であるということにおいて結びつく家族であり、そんな家族は家族という名には値しないであろう。

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