2009
11.26

林芙美子の文学(連載108)林芙美子の『浮雲』について(106)

林芙美子の文学, 林芙美子関係

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「喫茶 芙美子」 尾道にて(2009.11.14)
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林芙美子の文学(連載108)
林芙美子の『浮雲』について(106)

(初出「D文学通信」1312号・2009年11月26日)
清水正


富岡は〈女自身の個性の強さ〉や〈何ものにも影響されない、
独得な女の生き方〉に羨望と嫉妬を覚えるが、ゆき子が他の男
と寝ることには嫉妬を感じなかったのであろうか。


2009年11月24日(火曜)
「羨しいなア……」
そんな言葉が口をついて出た。
「まア! 何云ってるのよ。何が羨しいの? こんな暮しの何処が羨し
いの? あなたは次々に云う事が変ってゆく人なのね?」
「いや気にさわったら御免。只、そう思ったンだ。何もかもうまくいか
ないとなると、人の暮しは羨しいと思うンだね」
「人を馬鹿にしている。男って、みんなあなたみたいなのね。日本の男
って、肚のなかまで勝手なものだわ。自分の都合のいい事ばかり考えてる
……」
ゆき子は苛々していた。富岡は炬燵のなかで膝を貧乏ゆすりしながら、
ラジオの小箱を手にとって、幾度もダイヤルをまわした。
(241 〈二十
〉)
富岡は〈女自身の個性の強さ〉や〈何ものにも影響されない、独得な女
の生き方〉に羨望と嫉妬を覚えるが、ゆき子が他の男と寝ることには嫉妬
を感じなかったのであろうか。〈大きな白い枕〉や〈ラジオ〉をゆき子に
与えた男に対する嫉妬の感情は表出されず、富岡の口から出た言葉は「羨
しいなア」である。こういう言葉に「まア! 何云ってるのよ」と唖然と
するのは、ひとりゆき子のみではなかろう。
富岡はゆき子の独得な生き方に圧倒される余り、ゆき子が関係を持った
男に対する嫉妬の感情さえ押さえ込まれてしまったのだろうか。ゆき子は
「こんな暮しの何処が羨しいの?」と半分呆れた気持ちで訊く。ゆき子は、
自分に備わった天然の生活力に圧倒されている富岡の気持ちまで察するこ
とはできない。ゆき子の眼に富岡は〈次々に云う事が変ってゆく人〉とし
か映らない。
ゆき子は「日本の男って、肚のなかまで勝手なものだわ」と言い切る。
富岡一人が卑怯で卑劣で勝手なのではない。戦前、戦中、戦後を生きた日
本男子の言動を検証すれば、その大半がゆき子の指摘を拒むことはできな
いだろう。ゆき子は苛々し、富岡は貧乏ゆすりをはじめる。富岡は池袋の
汚れた寒いホテルの一室でも、ゆき子と肌を合わせる前、ひっきりなしに
貧乏ゆすりをしていた。富岡は、返す言葉を失い、窮地に追い込まれると
貧乏ゆすりをして黙り込む。この時も、富岡はラジオのダイヤルを執拗に
まわしながら黙り込んでいる。
ゆき子は戸外へ出て行った。ジョオが来たら、今夜は遠慮して貰うつも
りで暫く駅のところに立っていたが、三十分ばかりしてもジョオの姿は現
われなかった。思いあきらめて、ゆき子は、マアケットでカストリをビー
ル壜に分けて貰って小舎へ戻った。富岡は炬燵につっぷしてうとうとして
いた。その後姿は、妙に影が薄くて、ダラットで生活していた男の逞しさ
なぞは少しもなかった。
( 241 〈二十〉)
ゆき子は、富岡が小舎の前に立っていたその時に、彼を拒むことができ
なかった。ジョオとの関係を続けていけば、ゆき子は富岡との〈過去〉を
精算し、新たな生活へと踏み込んで行くことができた筈である。しかし、
ゆき子は富岡を小舎の中へと入れてしまった。ゆき子は戸外に出て駅でジ
ョオを待ち「今夜は遠慮して貰うつもり」でいた。幸か不幸か、ジョオは
やって来なかった。
ゆき子は思いあきらめて、カストリを買って小舎へと戻る。ゆき子の眼
差しは、炬燵につっぷしてうとうとしている影の薄い富岡の姿をとらえる。
今、ゆき子の眼前にいるのは、ダラットで関係していた頃の逞しい男では
ない。こんな嘘つきで、恰好だけつけたがる男など、さっさと切り捨てて
自分の道を歩みだせばいいようなものの、ゆき子はそれができない。〈変
貌〉したゆき子が、逞しさなど微塵もない、影の薄くなった男とどのよう
な関係を続けていくのであろうか。

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