清水正のチェーホフ論

【老教授の憤懣と癇癪】…チェーホフ『退屈な話』を読む(14)

わが輩の食事は冬よりも退屈である。今では嫌いなばかりか軽蔑してさえいる例のグネッケルが、ほとんど毎日わが家で食事をしていく。以前わが輩はだまって彼の同席を辛抱したが、今はもう妻やリーザが顔を赤らめるほどの皮肉を彼に向って浴せかける。邪悪な感情に溺れたわが輩は、しばしば暴言をはき、しかもなんのためにそうした暴言をはくのか我ながらわからない。ある時こんなことがあった。軽蔑の眼差で長いあいだグネッケルの顔を見つめているうちに、わが輩はふとこんなことを口に出したのである。
鷲は時として鶏より低く下りるけれど、鶏は決して雲まで昇らぬ。……〔クルィローフの寓話『鷲と鶏』の引用
ところで何よりも小癪なのは、鶏ふぜいのグネッケルが、鷲である大学教授よりも一だんと利口そうな顔をしていることである。彼は妻と娘が味方なのを知っているので、こういう戦法に出る。つまり、わが輩の皮肉に対して鷹揚な沈黙て答えるか(爺ィめ、気がふれたぞ、・・こんな奴と話す言葉はないと言わんばかりだ)、やんわりとわが輩をからかい返すかである。実際、驚嘆に値いするのだが、人間はよくよく下劣になり得るものである! わが輩は食事の間じゅう、このグネッケルが遠からず山師の尻尾をあらわすだろうと空想し、そのとき妻とリーザがあやまちを悟り、わが輩が彼女たちを嘲笑する様子を思い描く。・・しかもこうした馬鹿げた考えが、もう片足を墓穴に踏み込んでいながら心に浮ぶのである!
自分を鷲と思っていた家庭内の〈王さま〉が、余命半年の身になってみれば、もはや空高く飛翔することはできず、眼前の嫌悪すべきグネッケル以下の鶏と化している。本物の鷲は鶏などに眼もくれない。老教授は自分の力が衰え、才能が枯渇しつつあるのを自覚しているからこそ、眼前の鶏がいまいましくてならないのだ。鷲が鶏化して陰湿な皮肉を飛ばすようになったらもうおしまいである。それにしても不幸なのは妻のワーリャと娘のリーザである。リーザは自分の幸福を父親の鶏化によって奪いとられるかもしれないのだ。年頃の恋する娘が、恋人を捨てて父親をとるなどということは考えられない。父と恋人が仲違いすれば、リーザはとうぜん恋人と運命を共にする事を選ぶであろう。老教授は孤立する。孤立することで、自分だけの孤独をかみしめていたいかのようである。人間は一人で生まれ、一人で死んでいかなければならない。今、現世で名声を得た老教授が自らの〈死〉を間近に控えて、醜悪なわがままを発揮する。彼はこの愚かしいわがままを自分の力で抑制することができない。
ワーリャが「ニコライ・ステパーノヴィチ、あたしたちの知合いやご近所の人たちが、あなたがしげしげとカーチャのところへお出かけになるのを噂しはじめておりますよ。そりゃあの娘は利口で教育があって、一緒に時を過すのが愉快なのはあたしも認めますけれど、あなたほどのお年と社会的な地位にある方が、あの娘をあいてに満足なさるのはどんなものでしょう」と切りだした時、老教授はとつぜん立ち上がり、両足を踏みならしながら異様な声で「構わんでくれ!構わんでくれ! 構わんで!」とわめき散らす。『六号室』のラーギン医師がミハイル局長に叫び、『可愛い女』のサーシャが夢の中で叫ぶのと同じような、〈癇癪〉〈感情の爆発〉が老教授を襲ったのである。彼らの〈感情の爆発〉に共通しているのは、自分の内部に立ち入られることの頑強な拒否である。チェーホフの人物たちは、私も貴方の内部になど立ち入らないから、どうか貴方も私の内部に必要以上に立ち入らないで下さい、という立て札を立てている。この立て札を無視して、一歩でも踏み込んでくれば、相手が妻だろうが娘だろうが容赦なく拒否の叫びをあげるのである。
結婚し、子供をもうけ、気のおけない同僚があり、多くの教え子があっても、老教授ニコライ・ステパーノヴィチの孤独は癒されない。彼は孤独を抱きしめるような形でしか自分自身の存在を確認できないようなところが見える。老教授の幼少年時代の記述が完璧に省略されているが、おそらくこういった彼に特有な孤独の保持の仕方は彼の幼少年時代と無関係ではないだろう。彼は他者と無条件に結びつく、そう、胎内において母親と胎児が結びついているような、そういった絶対的な信頼関係に基づく対他者関係を幼少年時代に破壊されていた可能性がある。彼と他者との間には絶対に通い合うことのない強靱な膜が存在している。彼はすでに、この両者間の膜を破り、他者と愛と赦しに基づく信頼関係を獲得するための力を喪失している。換言すれば、彼にとって他者は他者であって信頼に足る同胞ではない。彼はかつて烈しく愛したという妻ワーリャに対しても、一人娘リーザに対しても、彼らを他者と見る眼差しを崩してはいない。それが先鋭化された形で出てきたのがグネッケルに対する嫌悪である。もし彼が本当にリーザを愛しているのであれば、リーザが愛する恋人グネッケルを彼女以上に愛せたはずである。グネッケルのことで父親が不愉快を感じていることに、リーザがどれほど苦しみ悲しんだか。もし彼がリーザを愛していれば、どうしてリーザの苦しみと悲しみを増長させるような真似ができるだろうか。

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