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林芙美子の文学(連載90)林芙美子の『浮雲』について(88)

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林芙美子の文学(連載90)
林芙美子の『浮雲』について(88)

(初出「D文学通信」1294号・2009年11月08日)
清水正


富岡が鮮やかに思い浮かべる仏印の光景は〈紅樹林の景観〉
である。〈ぎらぎらと天日に輝く油っこい葉〉〈幹を支える蛸のよう
な枝根の紅樹林の壁〉とは、どんな逆境にも微動だにしない、
永遠性を獲得した本来的生命力の象徴そのものである。


2009年11月3 日(火曜)
邦子は、不機嫌に黙りこんだ良人の冷い顔を見ていたが、急に涙が溢
れて来た。
「何を泣いてるンだ?」
「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになって、私は、罰があ
たったのだと思っています。人の罰が当ったのですわ」
「小泉君のことでも思い出したのか?」
「いいえ、そんな、あのひとのことなンか。……あなたがこのごろ、私
と別れたいと思っていらっしゃるのだと思って、いろんな罰を受けている
気がします」
「暮しが苦しいから、君はそんな苛々した気になるンだ。別れるなんて、
僕は少しも考えてはいない……」
(234 ~235 〈十八〉)
邦子は富岡に不信を抱いて、何度も〈厭な型の女〉〈派手な化粧の女〉
に関して問い質しているのに、富岡は話をはぐらかして、真実を語ろうと
はしない。もはや、富岡は邦子に対しても、ゆき子に対しても本当の思い
を語ることができず、嘘に嘘を重ねて、実現しない夢想へと逃避するばか
りである。会話の成立しない夫婦、心が通っていない愛人関係、富岡は妻
の邦子、愛人のゆき子といても、孤立感を深めるばかりである。が、ひと
り富岡だけが孤立しているのではない。
自分の発する言葉が〈不機嫌に黙りこんだ良人の冷い顔〉によって拒ま
れた邦子は、富岡以上に孤立の寒風に晒されている。邦子の眼にとつぜん
涙が溢れる。この涙の原因を作ったのは富岡である、しかし富岡は「何を
泣いてるンだ?」と訊く。何もかも知っていながら、その原因を直視し、
打開策を見いだせない富岡は、開き直って、とぼけ続けるほかはない。邦
子の「私、苦しい。とても苦しいのです」の言葉は、大袈裟ではなく、狂
気の一歩手前にある者の押し殺された叫びであるが、富岡は、邦子の苦し
みを根源的に癒す力も言葉も持っていない。
邦子は「罰があたった」、「人の罰が当たった」のだと口にする。注意
したいのは、邦子は〈天罰〉が当たったとは言わずに、〈人の罰〉が当た
ったと言っていることである。富岡はすぐに「小泉君の事でも思い出した
のか?」と訊く。ここで読者は、邦子が〈小泉〉という名前の男と結婚し
ていたことを知る。〈人の罰〉と聞いて、富岡は邦子の前夫・小泉のこと
を真先に思い出したのである。富岡は小泉から邦子を奪った。小泉は富岡
に邦子を奪われた。邦子は小泉を裏切った。この邦子をめぐる富岡と小泉
の間にどのような愛憎・確執のドラマがあったのか、作者はそのすべてに
幕を降ろして、読者に何も報告しない。はっきりしているのは、邦子が
〈人の罰〉という言葉を口にしたことだけである。
面白いのは、邦子が「あの人の事なんか」という言葉を発していること
である。どうやら、邦子は富岡を選んで小泉を棄てたことに関しては、何
らの疚しさも感じていないらしい。ということは、邦子は小泉との結婚生
活を〈過去の事〉としてきれいさっぱり始末してしまったということを意
味している。邦子にとって問題なのは、富岡との〈現在〉であって、小泉
との〈過去〉ではない。それでは、邦子は〈人の罰〉という言葉で、いっ
たい何を言いたかったのであろうか。〈人の罰〉という場合の〈人〉とは、
邦子が係わった具体的な人間(たとえば小泉)を指しているのではなく、
〈人として〉という意味で使われたのであろうか。つまり、邦子は〈人と
しての罰〉に当たったということになる。
邦子は〈現在の富岡〉が自分と別れたいと思っている事に苦しんでいる
のだが、その苦しみは人として〈いろンな罰〉を受けているのだという気
がしている。邦子は、〈罰〉に関して理論的に考えていないし、宗教的次
元で苦しんでいるわけでもない。邦子の〈罰〉はバツではなくて、あくま
でもバチである。邦子は〈罰=バチ〉が当たっているような〈気〉がして
いるのであって、〈唯一神〉によって厳しく罰せられているわけではない。
もし、邦子が唯一神に〈いろンな罰〉を受けている、その原因のすべてを
〈告白・懺悔〉したら、それこそ一巻の書物ができあがるかもしれない。
いずれにせよ、邦子の苦しみの原因が、富岡が邦子と別れたがっている
のではないかという心配にあるとすれば、富岡はその心配を取り除いてや
ればいいということになる。「暮しが苦しいから、君はそんな苛々した気
になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考えてはいない……」これはでま
かせの嘘だが、嘘としては完璧な嘘と言っていい。少なくとも、邦子の表
面上の心配は取り除けたことになる。

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