2009
11.07

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載32)

寺山修司・関係

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一生かくれんぼ
五十嵐 綾野

 かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭
 
寺山修司は「かくれんぼは悲しい遊びだ」と言う。かくれんぼは子供の頃、必ずする遊びだ。その遊びを悲しいかどうかを考えたことはなかった。落ち着いて考えてみると、隠れた子供を鬼が探しだすという単純な遊びには「終わり」がない。誰かが止めようと言いださなければ永遠に続く。みんなで遊んでいるはずが、ひたすら孤独に耐えるという根競べに近い。勝ち負けもあまり関係がないようである。
隠れる側も鬼にちゃんと見つけてもらえるかわからない。早く見つけてほしい気持ちと見つかりたくない気持ちが渦巻く。鬼もみんなが隠れているのか、それとも本当に消えてしまったのか心配になる。このように常に不安と孤独が付きまとっているのも特徴かもしれない。このような遊びの場合、鬼を決める時にはじゃんけんで決めることが多い。負けた人が鬼になる。しかし、かくれんぼは勝っても負けても不安になるという結果になる。
「もういいかい」「まだだよ」のやり取りは意外と楽しい。目をつぶっている鬼の後ろで、みんなの気配が感じられるからである。ところが「もういいよ」の合図で目をあけると、さっきまでいた友達の姿はもちろん、気配すらなくなる。
隠れている方はとくに不安感がある。結局、忘れられたのではないかと自分から出てくる子やみんなが帰ってしまったことに気付かずたった一人で隠れ続ける子もいる。かくれんぼはこれが永遠に繰り返されるのだ。寺山の言うとおりに、悲しい遊び以外の何物でもない。
また寺山は「私は一生かくれんぼの鬼である」とも言っている。どういうことかというと、かくれんぼをしている時に、自分の周りだけ時の流れが止まる。鬼の自分だけが子供のままで、隠れていた友達はすでに大人になっている。いくら探しても、時間の差は縮まらない。そして、鬼をだれかに変わってもらうこともできないという、実に暗い展開になる。
このように書くと、鬼はなんて嫌な役回りなのだろうと思う。しかし、よく考えてみればそんなに嫌な役回りではない。なぜなら、鬼は目をつぶることにより、一度世界が遮断される。再び目をあけるということは、今までと違った世界が広がっているということになる。鬼は永遠に隠れた友達を探さないこともできる。時間の流れを変えて自分だけ大人になることも可能である。
問題なのは、かくれんぼの鬼である寺山が何を探していたかということである。目をつぶって一旦リセットして、また新しい可能性を探す。新しい世界や未来の可能性。このようなものは寺山でなくても多くの人間が望み探していることだ。
寺山が終始こだわっていたことは、自分という人間がどこから来て、どこに向かっているのかということ。つまり、寺山が探していたのは他でもない「寺山修司」という自分自身なのだ。
では、寺山とはどういう人物だったのか。その答えは見つかることはないだろう。私自身でさえ何者なのかということがわからないのに他人である寺山のことはもっとわからない。一生をかけないと探すことはできない。そうすると、私もかくれんぼの鬼ということになるのだろうか。
寺山は自分とは何者かについて考えすぎたのだろう。知るためには、過去を見るのが一番手っ取り早い。ただ寺山の場合、自分と向き合いすぎたために、前を見ているはずの目すら後ろを向くようになってしまったのだ。

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