2009
11.02

林芙美子の文学(連載84)林芙美子の『浮雲』について(82)

ドストエフスキー関係, 林芙美子の文学, 林芙美子関係

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林芙美子の文学(連載84)
林芙美子の『浮雲』について(82)

(初出「D文学通信」1288号・2009年11月02日)
清水正


『浮雲』には『悪霊』に匹敵する様々な思想、神学が存在しない。
舞台は太平洋戦争中のダラット、敗戦後の日本であるが、富岡や
加野の口を通して、真っ正面から日本の軍隊、天皇、戦争責任な
どが議論されることはなかった。


2009年10月26日(月曜)
広大な領地スクヴァレーシニキの女地主であったワルワーラ夫人は、ス
テパンの衣装からシャンパン、研究に要するあらゆる諸経費のすべてを引
き受けた。ステパンは当地の若者を集め、毎夜、ソクラテス気取りでアテ
ナイの饗宴の如きパーティを開いてはロシアを、ロシアの神を、検閲問題
を、農奴制度を語った。当局はこの自由主義者ステパンを危険人物と見な
して、アントン・гなるスパイをもぐりこませる。このアントンの名前は、
ドストエフスキーが二十八歳の時に参加していたペトラシェフスキーの会
にもぐりこんでいたスパイ、アントネルリの名前とかぶる。
いずれにせよ、この国家から秘密裡に派遣されたアントンが、『悪霊』
の語り手〈私〉であり、『悪霊』はこのスパイによって書かれた「スクヴ
ァレーシニキにおける革命運動顛末記」というのがわたしの説である。
ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーは名前上はステ
パンの息子ということになっているが、実際の父親は結婚当初、一緒に住
んでいたポーランド人の可能性もある。自由主義者のステパンはバイセク
シャルな男で、妻と同時にこのポーランド人とも性的関係を結んでいた。
とうぜんステパンは、自由主義者であるから、妻といえども、その自由を
認めており、ポーランド人との性的関係を禁止していたわけではない。と
ころが、この自由主義者は口では妻の自由を認めながら、いざ子供が生ま
れると叔母が住むロシアの〇県に郵便馬車で送り届けてしまう。ステパン
が〈息子〉ピョートルに会ったのは、十八年後、ピョートルが大学受験の
ためにペテルブルクに上京していた時である。父親に棄てられたも同然の
生活を送ってきたピョートルが、ステパンに深い憎悪と皮肉を感じていた
ことは当然と言える。
『悪霊』は革命運動の首魁を装った二重スパイのピョートルが、その虚
無的戯れの熱い情熱をもってニコライ・スタヴローギンを革命後のロシア
のトップ(イワン皇子)に仕立てあげようとしたり、自由主義者で古代異
教徒的・汎神論的な神を信奉するステパンがイエス・キリストを求める放
浪の旅の途上で息を引き取ったり、なにもかもに情熱を失った虚無の権化
ニコライ・スタヴローギンが自らを神の身に置いて十二歳の少女を凌辱し
自殺に追い込む実験を試みたりする、実に壮大なスケールの小説である。
国家の存亡、人類の未来を賭けて、神を試みる者、ロシアの神を信ずる
者、虚無の直中で赤く長い舌を出し続ける者、人の心に棲みつく悪魔を看
破する者、革命運動に身を投ずる者、権力の座にしがみつく者、スパイ活
動に徹する者たちなどが、〈スクヴァレーシニキ〉という場所に集まり、
大きな事件の渦の中に巻き込まれていく様をドストエフスキーは描き切っ
ている。
『浮雲』には『悪霊』に匹敵する様々な思想、神学が存在しない。舞台
は太平洋戦争中のダラット、敗戦後の日本であるが、富岡や加野の口を通
して、真っ正面から日本の軍隊、天皇、戦争責任などが議論されることは
なかった。『悪霊』は一人の乞食男にとり憑いていた〈悪鬼ども〉(бе
сы)が、イエスの命令に従って〈ゲラサの豚〉にのり移り、その豚ども
が次々に狂ったように海に駆け落ち、溺れ死んでしまう、という聖書に記
された〈事件〉を最深部のベースにしている。ドストエフスキーは社会主
義にとり憑かれた革命家の、その破綻的運命を〈ゲラサの豚〉の故事に重
ねて、〈革命〉ではなく〈信仰〉に拠って立つ未来のロシア国家像を予見
したとも言われるが、もちろん事はそんな単純な概説によって説明しきれ
るものではない。
わたしが『悪霊』論三部作を書き上げたのは一九九〇年であるが、それ
までピョートルは革命運動の首魁という範疇に収まっていた。こういった
見方によっては『悪霊』の底知れぬ舞台へと参入することはできない。ニ
コライ・スタヴローギンの〈自殺〉に関しても、そのことを文字通り受け
止めることは危険である。ピョートルが仕掛けた〈革命運動〉の実態を知
り尽くしているニコライを生かしておくは、政治的力学上考えることはで
きない。私見によれば、ニコライはピョートル一味によって〈首吊り自
殺〉に偽装された他殺ということになる。
ピョートルを首魁とする秘密革命結社(五人組)の名前はすべて明らか
にされているし、ピョートルはポクロフ祭までに彼らを一皿盛りにして当
局に進呈することを条件にスクヴァレーシニキに登場することを許された
二重スパイであるが、ニコライ・スタヴローギンを殺して〈首吊り〉状態
を作り上げた連中の存在を、ドストエフスキーは作中に登場させることは
なかった。ピョートルは表の〈五人組〉と、さらに秘密の裏の〈五人組〉
(別に何人でもかまわないが)を結成して、彼らを自由に操る力を持って
いたと考えられる。
『悪霊』の舞台となったスクヴァレーシニキは多くの血を呑み込んだ。
ニコライ・スタヴローギンは〈自殺〉、シャートフはピョートルによって
殺害され、キリーロフはピョートルの指令によって自殺に追い込まれ、ニ
コライの正妻マリア・レビャートキナとその兄レビャートキンは脱獄囚フ
ェージカによって殺害され、シャートフの戸籍上の妻マリアはニコライの
子供を産み落とした後に死ぬ。とりあえず、無傷でスクヴァレーシニキを
去っていったのはピョートルだけと言っていい。
この『悪霊』という小説の体裁をとった報告書を書き上げるためには、
〈作中作者〉アントン・г(国家から派遣されたスパイ)は二重スパイの
ピョートルだけが知っている情報を入手していなければならない。ピョー
トルは〈報告書〉を提出した後、すみやかに処理された可能性もある。も
ちろん、国家から派遣されたスパイ・アントンもまた用が済めばなきもの
にされたであろう。それが、政治力学上の鉄則というものである。
国家の中心は台風の目のようなもので、空白(無)である。この虚無の
中心に存在するものこそは姿なき〈権力者〉であり、人間の誰ひとりとし
て、この権力の座に就くことはできない。『悪霊』においてこの権力の中
枢部に限りなく近づいた者こそ、テキストの表層レベルで、ニコライ・ス
タヴローギンの猿と言われたピョートルであるが、彼もまた虚無の中心に
到りつくことはできなかった。神を試みたニコライ・スタヴローギンも、
そのニコライを題材にして戯れたピョートルも、ついに神の領域に踏み込
むことはできなかったということである。
富岡は『悪霊』を読んでも、かつて坂口安吾が『カラマーゾフの兄弟』
を読んで漏らしたように、たかの知れた読み方しかできなかった。富岡の
『悪霊』理解は、作者林芙美子の理解を超えることはできない。林芙美子
は、当時の小説家が例外なくドストエフスキーに心酔し、ドストエフスキ
ーの影響を受けていたように、彼女もまたドストエフスキーを読んで作品
の中に投影させた。しかし、その投影の仕方は、ドストエフスキーの側に
踏み込んで行くというのではなく、自分の側に引き寄せるという形でなさ
れた。もし、林芙美子がドストエフスキーの方へと踏み込んで行けば、
『浮雲』の成功はなかったであろう。ニコライ・スタヴローギンといえど
も、富岡の側に引き寄せられることで『浮雲』の中に生かされるのである。
富岡はゆき子やニウのことを〈すまない〉と思うが、罪の意識に苛まれ
ているわけではない。ニコライ・スタヴローギンにおける〈善悪観念の磨
滅〉は、キリスト教世界の中では神の否定に繋がる絶対価値の否定である
が、富岡にとってはそんなことはたいした問題ではない。ニコライは神を
相手に内的議論をはてしなく展開するような青年であるが、富岡にとって
垂直軸上の頂点に位置する、裁き、罰する神の観念はない。
富岡にとって問題なのは、ニウであり、ゆき子であり、邦子である。富
岡が肉体関係を結んだ女が、すべて仲良く富岡の愛人に収まればそれで問
題は片づくのである。邦子が妻としての権利を行使し、富岡を独り占めし
ようと、他のいかなる女の存在も拒めば、富岡を求める女、たとえばゆき
子との間に解決しようのない確執が生ずることになる。現に、邦子は〈ほ
てい商会〉の派手な化粧をした女を〈私の厭な型の女の人〉と言い放って
いる。
〈派手な化粧〉という言葉には教養、品格のなさが露骨にこめられてい
る。そんな女とかかわり合っている夫に、邦子のプライドが痛く傷ついて
いる。富岡は二人の女を同時に愛することはできても、二人の女の間に生
ずる嫉妬、憎悪、確執をどうすることもできない。だからこそ、厄介であ
り、焦燥するのだし、逃げだしたくなるのだし、できれば金で解決したく
もなるのである。
富岡が、ニウやゆき子や邦子のことでどんなに悩みを深くしようが、そ
こに神の存在が介在してくることはない。富岡は、姿なき〈神〉に向かっ
て〈告白〉〈懺悔〉する気持ちになったことは一度もない。富岡は漠然と
ダラット高原の山や湖を眺めたことはあっても、敬虔な祈りの姿勢を見せ
たことはない。富岡のダンディズムはまさにたかが知れたもので、彼の眼
差しは無限の彼方に向けられていない。日本に帰れば、すぐに商売人の
〈胸算用〉に生きる男に成り下がり、ゆき子に対しても、両親や妻に対し
ても、金の額で〈別れ〉を量るみみっちい男になってしまった。林芙美子
の文学者としてのすばらしさは、このみみっちい男を最後の最後まで手放
さなかったことにある。

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