日野啓三の『落葉 神の小さな庭で』

清水正の文芸時評

懐疑の果てに〈神の庭〉と和解した小説家
日野啓三が亡くなった。日野氏とは生前一度もお会いしたことがなかったが、氏のドストエフスキー論などは読んでいた。私はかつて「ドストエフスキー狂想曲」(一九七五~一九七九年)という雑誌を主宰していた。・号を氏に送ったところお礼の葉書(一九七七年十月一日)が届いた。そこに「貴兄が『弱い心』を論じた作品の末尾の、夕景色についての指摘、不思議な戦慄を覚えました」とある。主人公のワーシャはとつぜん訪れた婚約という幸福に堪えきれず発狂してしまう。友人のアルカージイはワーシャの発狂の謎を抱え込んだままネヴァ河の夕景色を凝視する。私は書いた「論理や言葉では手のとどかぬ世界をアルカージイはただ見詰めるだけである。そこには社会に対する抗議も批難も全く入り込む余地はない。眼の前に開示された世界はまるごと夢幻的な様相を呈しており、そこでは一人の人間の発狂という痛ましいドラマばかりではなく、金殿玉楼から掘立て小屋にいたる全世界が〈青黒い空に煙となって雲散霧消〉してしまうのである。この透明で静謐な風景描写を読むとき、我々は人間存在の不可思議さを超えて、世界そのもの、存在そのものの神秘をこそかいま見せられる。そのとき、人はまぎれもなくアルカージイと同様な〈奇怪な想念〉にうたれるのである」と。
 日野啓三の最後の本となった短編集『落葉 神の小さな庭で』(二00二年五月、集英社)のあとがきに「本当に大切なのは、この私ではなくて世界の方なのだ」「私たちは男も女も人間も動物も、実は同じ神の庭で生かされているのだ。必ずしもキリスト教の神ではなくても」とある。また「もともと〈現実〉か〈錯乱〉かという区別が本質的なのではなく、たとえば薄青く震える秋の光とともにおのずから姿を現わす〈現実的な幻想〉ないし〈幻想的な現実〉のイメージこそが、実在の真相なのであろう。〈幻想的でしかない幻想〉も〈現実的でしかない現実〉も浅薄な思い込みに過ぎないのではないか」(「薄青く震える秋の光の中で」)とも書いている。ドストエフスキーはストラーホフ宛の手紙(一八六九年二月二十六日)に「大多数の人がほとんど幻想的なもの、例外的なものと見なしているものが、私にとっては時として現実の真の本質をなすのです」と記している。日野敬三はドストエフスキーのこの独自なリアリズム観を引き継ぎ、初期短編『弱い心』に描かれたペテルブルクの夕景色の神秘と謎を凝視し続けてきた小説家である。
 ちっぽけな人間の悲しさや苦しさに寄り添う優しい眼差しを獲得した日野の作品は深く静かに読者の魂を震わす。風の多様な哭く声を聞き、病院の窓の外に怪しい異形のものの幻覚を目にし、世界の真相が恐るべきものであるなら認識者自身が多少とも怪物的にならねばならないと考え、落葉小高木(えごのき)の葉並が抱えこんでいる闇にブラックホールの入口を思わせる神秘の気配を感じ、「そう、この世界のすぐ上、すぐ奥、すぐの深みには古来、聖霊が統べる領域があって、われわれの魂が純粋に張りつめ、視線が力を秘めていれば、聖霊の力をじかに感じとることができるはずなのだ」と書く日野は、確かにドストエフスキー文学の或る側面を20世紀の日本で受け継ぎ花開かせた作家であり、懐疑の果てに世界(神の庭)と和解した作家とも見える。
 一年間の時評で、私が取り上げた作品は第一回黒井千次「隣家」、松浦寿輝「虻」、第二回稲葉真弓「どんぶらこ」、岩阪恵子「掘るひと」、南木佳士「底石を探す」、第三回南木佳士「山中静夫氏の尊厳死」「阿弥陀堂だより」「神かくし」「濃霧」、佐藤洋二郎「蟻の生活」、和田ゆりえ「ダフネー」、緒方圭子「ヴァージン・ロード」、第四回南木佳士『ダイヤモンドダスト』、佐藤洋二郎「箱根心中」、湯本香樹実「西日の町」、早坂類「ルピナス」、第五回早坂類「ルピナス」、第六回上田榮子「海鳥のコロニー」、第七回車谷長吉「贋世捨人」、岩阪恵子「雨通夜」、第八回つげ義春「ほんやら洞のべんさん」、井村恭一「睡眠プール」、松野大介「非常階段」、原田宗典「劇場の神様」、第九回梁石日『終りなき始まり』、第十回李良枝「由熙」、第十一回玄月「おしゃべりな犬」である。
 私がまず関心を抱いたのは、佐藤洋二郎、南木佳士、岩阪恵子、稲葉真弓など、日常に材を採りながら、人間が生きてあるその姿に潜む怪異さや深淵をかいま見せる作品を書き継いでいる昭和二十年代生まれの作家たちである(私は彼らを〈日常深淵派の作家〉と名付けた)。「ルピナス」の早坂類には或る何ものかに書かされているという痛ましいほど鋭利な天才性を感じ、「ダフネー」、「鏡の森」(「文學界」12月号)の和田ゆりえには作品世界全体に濃密な汎神論的エロスを醸しだす類稀な才能を感じた。将来が楽しみな作家であり、両氏の作品に対してはいずれ本格的な批評を書かねばなるまいという気持ちにさせられた。在日の作家たち、特に玄月の作品にはこれから何が出てくるかわからない豊穣の混沌を感じる。ドストエフスキーを読みつづけている者にとって、玄月は魅力的な作家の一人であり、さらなる実験、冒険に果敢に挑戦してもらいたいと思う。
 第一回目の時評で黒井千次の短編「隣家」をとりあげたが、この最終回では岡松和夫の「チョコレート・パン」(「群像」十二月号)をとりあげたい。主人公の軽部は大学院に籍を置く女子高校の教師。教え子のひとり真知子の母は心を病んでいる。家庭訪問した軽部は真知子の母と、食事を拒み続けて病院で死んだ自分の母親とがオーバーラップする。
ある日軽部は、道に迷ったあげく交番に入る真知子の母を目撃する。彼女は警官に事情を説明する軽部の顔をじっと見つめ「チョコレート・パン」と呟く・・。この短編を読んで私はホッとした。日本の小説の良さは短編にあると思い続けてきたが、この作品はそれをさりげなく証明している。作家が静かに構えているその姿勢に、相手を打ち込む殺気はなく、相手に打ち込まれる微塵の隙もない。かと言って不同の姿勢を保持しているのでもない。剣を握る両掌のうちにピクッと動くかすかな気配はある。作品の窓枠は小さいが、覗き込むと意外に奥が深い。その奥が果てしなく深く、脅えを感ずるというのではない。奥が深淵の闇ではなく、水彩画の淡さをもって深いのである。また、泣きわめいたり、狂気を誘う悲しさではなく、胸懐に深くしっかりと抱きしめられた悲しみが静かに伝わってくる。母の狂を受け止める、その思いのうちに込められた悲しみが〈時〉の層を幾重にも重ねているだけに、それは読者の胸にしみる。題名のさりげなさもよい。時評の最終回にこのような傑作短編に出会えたことに感謝している。
(「図書新聞」2002年12月7日)

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