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林芙美子の文学(連載76)林芙美子の『浮雲』について(74)

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林芙美子の文学(連載76)
林芙美子の『浮雲』について(74)

(初出「D文学通信」1280号・2009年10月25日)
清水正


執拗に強調されている〈寒さ〉は、もちろんゆき子の内的な
凍えの隠喩ともなっている。ゆき子は伊庭と話しを交わし、
一緒に汁粉をすすり、一緒に歩き、一緒に映画を観ても、
ついに〈ひとり〉でしかない。


2009年10月19日(月曜)
ゆき子は、伊庭になんやかんや聞かれて、けっこうそれに答えている。
富岡という名前は出していないが、結婚するつもりでいた男が農林省に勤
めていたことや、現在は材木関係の仕事をしていて、伊庭より年上だとか、
かなり具体的なことまで話している。伊庭は、男にゆき子が欺されたと思
うが、ゆき子は富岡に欺されたとは思っていない。富岡はゆき子との結婚
の約束を果たさなかったのであるから、明らかにゆき子を騙したことにな
る。こんな明確なことをゆき子がきちんと認識できないのは、彼女が未だ
に富岡に未練たっぷりだからである。
ところで、ゆき子は単に富岡に執着するだけの女ではないこともきちん
と見ておく必要がある。初めてゆき子が富岡とダラットの山林事務所で話
を交わした場面を想い出せばいい。ゆき子は、本命富岡を落とすために、
加野を最大限に巧妙に利用したことを忘れてはならない。今、ここで何故、
ゆき子は伊庭の質問に、いちいち答えているかを考えてみようではないか。
ゆき子は伊庭を好きではないが、嫌悪を抱くほど嫌いでもない。何しろ
彼らは三年もの間、不倫の関係を続けた仲なのだ。日本を離れてダラット
に就くまでの間、ゆき子は人肌恋しく、伊庭とのことを想いだしたことも
二度や三度ではない。富岡と関係を持ってからは、伊庭のことも忘れてい
ただろうが、日本へ帰ってきて富岡との間も怪しく感じられるようになっ
た今、伊庭は金を含め、何らかの利用価値のある男となった。ゆき子が、
伊庭の質問に終始一貫、沈黙で答えるのではなく、それなりに具体的に答
えているのは、伊庭との関係を断ち切りたくないという、ゆき子の打算が
働いている。
林芙美子は「ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしていたが、地肌が白いの
で、その紫が顔に影をつくってよく似合っていた」と書いているが、もち
ろんこのゆき子の顔を正面から見ているのは伊庭で、彼は四年振りに会っ
た、すっかり大人っぽく、はきはきとしたゆき子に新たな魅力を感じてい
たに違いない。とうぜん、ゆき子はそんな伊庭の眼差しを敏感に察しなが
ら、知らん振りを決め込んで話しの相手になっているのである。
二人は蕎麦屋を出ると新宿に向かう。硝子の壊れた、氷の部屋のような
電車に乗って新宿に着くと、武蔵野館に入りキュウリイ夫人を観る。
ぼろぼろになった椅子に、二人は並んで腰をかけたが、映画館の中もと
ても寒かった。荒れ果てて昔のおもかげもない、むさくるしい小舎の中で、
初めて観る西洋映画は、現実からはずれたような奇妙な感じだった。
伊庭は何を考えてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握った。熱い手だ
った。ゆき子は厭な気持ちだったが我まんして、伊庭に手を握られたまま
にしていた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のように
見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に来て、こんな淋しい思い
をするのも、みんな富岡の為なのだと、いまごろになって涙が溢れて来る。
(229 〈十七〉)
蕎麦屋の中も寒い、外に出ると風も強く寒い、電車の中も寒い、映画館
の中も寒い……。林芙美子は執拗に寒さを強調している。伊庭とゆき子の
他に登場するのは、蕎麦屋で〈ガーゼのマスクをした、桃割に結いたての
娘〉が一人きりで、作者は道を歩く者たち、蕎麦屋の客、電車の中の乗客、
映画館の客のいっさいを描写からはずしている。カメラがとらえているの
は寒さに震えながら汁粉を食べている伊庭とゆき子、駅前の壊れた自動電
話の前で立ち話をしている伊庭とゆき子、走る電車の中から荒涼とした焼
跡を眺めている伊庭とゆき子、武蔵野館でキュウリイ夫人を観ている伊庭
とゆき子だけである。
執拗に強調されている〈寒さ〉は、もちろんゆき子の内的な凍えの隠喩
ともなっている。ゆき子は伊庭と話しを交わし、一緒に汁粉をすすり、一
緒に歩き、一緒に映画を観ても、ついに〈ひとり〉でしかない。伊庭は、
四年前とは人柄が変わってしまったゆき子のその〈ひとり〉が放つ無形の
壁を越えることができない。伊庭とて孤独な存在には違いないが、彼の孤
独はゆき子の孤独を包み込むほどの大いなる孤独ではない。
林芙美子は伊庭の内面に必要以上に深入りしない。「伊庭は何を考えて
か、ゆき子の手を暗がりのなかで握った」と書いて、この時の伊庭の心理
には触れない。しかし、この描写だけで、伊庭の心理心情、性格は明確に
伝わる。伊庭の考えていることは邪なことで、それは光の射す明るい場所
では表明できない。十九歳のゆき子が静岡の田舎から伊庭を頼って出てき
たその日、その時から、彼はゆき子にたいして邪な思いを抱いていた。そ
うでなければ一週間目にゆき子の処女を奪うなどという行為に出られるは
ずもない。伊庭は、毎日、妻の目を盗んでゆき子をものにしようとたくら
んでいたのだ。夜遅く、いきなりゆき子を襲っても、ゆき子は声ひとつた
てないだろうということさえ、伊庭はみこんで不埒な行為におよんだので
ある。
「伊庭は何を考えてか」・・伊庭は『罪と罰』で言えば、ピョートル・
ルージンのような打算的な俗物である。ルージンは敏腕家ではあるが、一
家の犠牲となって娼婦となっているソーニャに冤罪事件を仕掛けるような
卑劣漢であった。伊庭は小説の中でその卑劣漢ぶりを大袈裟に露呈されて
はいないが、しかし、ゆき子の処女を一週間目に奪ったという事実は、卑
劣という誹りを免れない。ゆき子は伊庭を頼るしかなく、伊庭を拒めば東
京にいられなくなる。ゆき子の東京でタイピストとして働くという夢は断
念を余儀なくされる。伊庭はそういったゆき子の弱みにつけこんで、闇に
乗じてゆき子の部屋に忍び込み、無理やり軆を奪ったのであるから、こん
な計算づくの卑劣な男はいない。
しかし、ゆき子はそんな伊庭の〈卑劣〉を暴き、糾弾し、罰するために
東京にとどまっていたのではない。ゆき子は伊庭に限らず、富岡に対して
も罰するという意識はない。そもそも、伊庭や富岡と同様、ゆき子には
〈不倫〉に対する罪意識はない。もしゆき子が伊庭を厳しく責めれば、そ
の責めの先にはゆき子自身も立っていることになる。彼らは、〈不倫〉の
泥沼に喘いでいたということに関しては同罪なのである。
ゆき子は寒い。伊庭も寒い。二人はそれぞれの〈寒さ〉に震えながら、
たまたま今、一緒に映画館にいて、キュウリイ夫人を観ているに過ぎない。
伊庭は、闇に乗じてゆき子の手を握る。まずは反応を確かめるのが伊庭の
やり口で、おそらくゆき子の処女を奪うまでの間にも、こういったちょっ
とした行為で相手の出方を確認していたに違いない。
ゆき子は拒まない。ゆき子は伊庭の熱い手の感触を感じながら、そのま
まにしておく。作者は「ゆき子は厭な気持ちだったが我まんして」と書い
ている。しかし、作者はゆき子の気持ちをそのように書いたが、伊庭には
ゆき子の〈厭な気持ち〉が正確に伝わっていたとは思えない。ゆき子はダ
ラットで加野に二の腕を強く握り締められた時も、口では「厭ッ!」と言
いながら、しかし加野の手をふりほどきはしなかった。
こういった曖昧な女の態度を自分に都合よく解釈するのが男で、しかも
男に強い慾情がある場合は、スヴィドリガイロフ氏の言う通り、いつでも
理性は慾情の支配下に落ちるのである。加野は、たまたま迎えに来た富岡
の呼ぶ声に邪魔されてゆき子をものにすることができなかったが、あの時、
富岡が来なければ、加野とゆき子は結ばれていた可能性が高い。ゆき子は
富岡に復讐するため、という意識だけで好きでもない加野に抱かれてもよ
かったという気持ちになっていたのであるから。
伊庭は〈暗がりのなか〉でゆき子の手を握り、逢わずにいた四年間に架
橋できるかどうかを探っている。ゆき子は「手を握られたままにしてい
た」というのであるから、伊庭の思いに応えなかったということである。
伊庭の横顔は銀色に光るスクリーンの反射で〈死人〉のように見えたと書
かれている。この伊庭の〈横顔〉に眼差しを注いだのはゆき子であろうか。
あるいは〈死人〉のような横顔を見せていたのは、伊庭以上にゆき子であ
ったのかもしれない。
いずれにせよ、二人の眼差しは銀色のスクリーン上に注がれているとい
うよりは、自分自身の内面の世界へと注がれていたに違いない。もし、伊
庭に壮大な思想が賦与されていれば、ゆき子の手を握ったその手のシーン
をはるかに超えて、その〈死人〉のような顔が強烈に印象付けられたこと
であろう。が、『浮雲』の中では、伊庭は歳より老けた、その疲れ切った
〈死人〉のような横顔をゆき子と作者の眼差しに晒しているだけである。

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