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林芙美子の文学(連載73)林芙美子の『浮雲』について(71)

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林芙美子の文学(連載73)
林芙美子の『浮雲』について(71)

(初出「D文学通信」1277号・2009年10月22日)
清水正


ゆき子という女は、何故、こんなにも
〈過去〉の男と関わりあって生きるのだろうか。
ゆき子は〈過去〉を切断して、〈今〉に賭けること
のできない女なのである。


2009年10月16日(金曜)
〈十七〉は次のように始まる。
四日ばかりして、不意に伊庭が上京して来た。
ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭に、向うからほつほつやっ
て来る伊庭に会った時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思った。伊
庭も吃驚したよう立った。
「おう、ゆきちゃんじゃないか?」
ゆき子は突然だったので顔を赧めた。
「何時、戻ったンだい? 静岡へ何故、先に戻って来ないンだ。やっぱ
りゆきちゃんだったンだね……」
伊庭は四年も見ないうちに、すっかり老けこんで人相も変っていた。
「私がここへ来てるの、どうして知ってて?」
伊庭は黒い外套の襟を立ててくるりと、後がえりの姿で、
「家じゃこみいった話も出来ないから、何処かで休みながら茶でも飲む
か……」
そう云って、ぴゅうぴゅう寒い風の吹く、からからに乾いた広い道の
方へ出て行った。ゆき子も、伊庭の疲れたような後姿を珍しいものでも見
るように眺めながら、黙ってついて行った。踏切を渡って、伊庭は駅へは
這入らないで、かまわずに道をまっすぐ行って、丁度駅からは、はすかい
に見える蕎麦屋ののれんをくぐった。薄暗い家のなかには火の気もなく、
たたきに並んでいる卓子の上は白い埃が浮いていた。隅の方に二人は腰を
かけてむきあったが、二人ともあまり寒いので、足をたたきから浮かせる
ようにしていた。それに硝子戸の外はこまかい格子だったので、その一隅
は特別薄暗く寒かった。
(225 ~226 〈十七〉)
林芙美子の構成は実にうまい。まさに映画の場面を観るようである。
〈十六〉の最終場面は、蒲団を頭から被って、畳の上を自暴自棄になって
ごろごろ転げまわるゆき子と、その姿を見ながら森閑として坐ったままの
富岡の姿を映し出していた。そして画面はフェイドアウトして闇の中へと
消えていく。
読者はその夜の二人がどのような関係を結んだのかしらない。朝方まで
富岡はゆき子の軆に触れることもなく、坐ったまま仮眠状態に陥ったのか。
ゆき子は酔いつぶれてそのまま眠りについたのか。いつ富岡はホテルの部
屋を出たのか。二人一緒に出たのか。それとも別々に出て、別々の彷徨へ
と歩き去ったのか。富岡が出した千円の金をゆき子は受け取ったのか、そ
れとも最後まで拒んだのか。別れ際、二人はどのような言葉を交わしたの
か。要するに、そういったことを知りたければ、読者は勝手に想像力を働
かせるしかない。これらすべては、画面の闇の中へと消えて行き、そして
四日がたったのである。
新しいスクリーンに映し出されるのは、上京して来た伊庭とゆき子が路
地で出会う場面である。ゆき子と伊庭の関係に関しては、〈三〉章で簡単
に報告されていただけで、伊庭の具体的な肖像は明確に描かれていなかっ
た。ゆき子は静岡の女学校を出ると姉の夫の弟伊庭杉夫の家に寄宿するこ
とになった。伊庭はすでに結婚して東京に住んでいた。神田のタイピスト
学校へ通うため、ゆき子は伊庭夫妻を頼ったわけだが、一週間目の夜、伊
庭に強姦されてしまう。以来、伊庭とゆき子は三年間にわたって不倫の関
係を続けることになった。
同じ家に住んでいて、伊庭の妻真佐子が、夫とゆき子の関係にまったく
気づいていなかったとしたら、こんな鈍感な妻はいないということになる。
林芙美子は、具体的に真佐子のゆき子にたいする思いを描くことはなかっ
たが、そこは女の直感がはたらいていたと見て間違いはない。もし、真佐
子が夫とゆき子の関係に気づいていたとしたら、戦争に負けてダラットか
ら日本へ引き揚げてきたゆき子が、実家のある静岡に帰らず、東京の伊庭
の家を訪ねてそこに住んだことに怒りを覚えたに違いない。
が、林芙美子は富岡とゆき子の関係に関しては執拗に追いつづけたが、
伊庭とゆき子の関係に関しては、それほど身を入れて描写しているとは言
いがたい。伊庭の妻にいたっては、邦子以上におざなりにされている。も
し、林芙美子がゆき子と伊庭の関係を、富岡と同様に詳細に描けば、『浮
雲』は大長編となったことだろう。『浮雲』が、今現在の形で収まったの
は、作者がたとえ重要な場面ではあっても、大胆に省略する手法を採った
からと言える。読者は、多くの〈省略〉によって構成された『浮雲』を読
むことで、描かれざる場面をも想像するほかはない。
『浮雲』は映画を観るように、鮮明に映像が浮かぶように描かれている。
ゆき子は路地の出逢頭に「向こうからほつほつやって来る」伊庭の姿を認
める。この〈ほつほつ〉という形容が、伊庭の性格を的確に浮き彫りにし
ている。性急にでもなく、ゆったりでもなく、何か物思いにふける様子で
もなく、要するに〈ほつほつ〉なのである。この形容から、読者は伊庭の
歩く姿が鮮明に見える。何しろ、自分を頼ってきた田舎者の十九歳の娘を
一週間後には手籠めにしてしゃあしゃあと真面目風を装っていた伊庭のこ
とである、この男の通俗ぶりは、ダンディをかこっている富岡よりはるか
に強靱と言えよう。
「伊庭は四年も見ないうちに、すっかり老けこんで人相も変っていた」
と、林芙美子はゆき子の眼差しにとらえられた伊庭の肖像を報告する。戦
争を間に挟んだ伊庭の日本での〈四年間〉は、その間を極楽のダラットで
過ごしたゆき子の想像を絶する苦労の連続だったのであろう。さらに作者
は「伊庭は黒い外套の襟を立ててくるりと、後ろがえりの姿」でと書いて
いる。これでゆき子がとらえた伊庭の肖像は読者にも明確に伝わったこと
になる。
伊庭の「おう、ゆきちゃんじゃないか?」の最初の言葉からは、三年間
の不倫を続けた男の疚しさなどは微塵もない。彼らの関係を知らなければ、
まさに伊庭はゆき子の叔父そのものである。ダラットで富岡と性愛の関係
を続けたゆき子にとって、伊庭はすでに〈過去の男〉であって、感情的に
はすでに何のこだわりもない。ゆき子はお茶を誘われ、「伊庭の疲れたよ
うな後姿を珍しいものでも見るように眺めながら」黙ってついて行く。ダ
ラットの森で富岡の後ろ姿を眺めながらついて行った時には、ゆき子はそ
の背中に〈卑しさ〉を感じた。それはゆき子自身の〈卑しさ〉の投影でも
あったが、ここでは伊庭の背中に〈疲れ〉しか感じない。もはや伊庭は性
愛の対象ではなく、単なる妙に老けて、疲れている男でしかない。
四年前までは深い仲だった男と、ゆき子は二人して戦後まもない東京の
町を歩く。「びゅうびゅう寒い風の吹く、からからに乾いた広い道の方へ
出て行った」とは、ゆき子の内的な光景そのものの反映でもある。二人は
蕎麦屋ののれをくぐり、隅の席に向かい合って腰掛ける。薄暗く寒い蕎麦
屋の片隅で向かい合って腰掛けた、そのこと自体が、二人の関係を端的に
象徴している。
ゆき子という女は、何故、こんなにも〈過去〉の男と関わりあって生き
るのだろうか。前にも指摘した通り、ゆき子は〈過去〉を切断して、〈
今〉に賭けることのできない女なのである。伊庭といい、富岡といい、二
人の男は言わば過去の男でしかないのに、ゆき子はこの〈過去の男〉を眼
の前にぶらさげて、愚痴ったり、罵ったり、馬鹿にしたりして、係わらず
にはおれない。
林芙美子は「二人ともあまり寒いので、足をたたきから浮かせるように
していた」と書いた。まさに、二人は大地に足をつけて生きることのでき
ない、宙に浮いた生を薄暗く寒い片隅で向き合っている。彼らの関係の危
うさ、本来的な実存から離れた、その生ぬるく薄暗い、彼ら二人の虚ろな
生存が端的に浮き彫りにされている。

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