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林芙美子の文学(連載72)林芙美子の『浮雲』について(70)

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林芙美子の文学(連載72)
林芙美子の『浮雲』について(70)

(初出「D文学通信」1276号・2009年10月21日)
清水正


ゆき子は富岡を追い詰め、追い詰めて、
「森閑とそこに坐ったまま」にしておく事しかできない。
いずれにせよ、〈十六〉の終幕場面は、
男と女の修羅場の究極の姿が
見事に描きだされた場面と言える。


2009年10月15日(木曜)
眼が据っていた。そして、富岡の手を放すと、ゆき子は、そこにある
蒲団を頭から被ってごろごろと畳を転げまわった。ゆき子の自暴自棄な姿
を眼にして、富岡は森閑とそこに坐ったままだった。
(225 〈十六〉)
ここで〈十六〉章は幕を降ろす。林芙美子は富岡が、一人ゆき子を置い
て部屋を出て行ってしまったのか、それとも、結局はゆき子と一夜を共に
したのか、を書かない。蒲団を頭から被ってごろごろと畳を転げまわって
いる女を捨ておいて、家に帰れる富岡なら、とうにきっぱりとゆき子と縁
を切っていただろう。
先に富岡は「今夜も、泊れない事はないが、もう、君を偽っては悪い気
がして、僕はさっきから早く帰るべきだと、自分に云いきかしていた」と
言っていた。今、ゆき子の悶え苦しむ姿を見せられて、さっさと部屋を出
ていくことはできない。それが富岡の〈弱いところ〉で、ゆき子は富岡の
その〈弱いところ〉を実によく、体感的に知っている。
が、富岡がゆき子の欲求に応えられない男であることはすでに明白で、
ゆき子がどんなに自暴自棄になっても、富岡はゆき子にたいして何もして
やることはできない。「富岡は森閑とそこに坐ったままだった」は、富岡
の本来的な、空虚な存在の赤裸々な姿を端的に表現している。ニコライ・
ステパノヴィチ教授がカーチャにたいして無力であったように、富岡もま
たゆき子にたいして無力なのである。
ゆき子は「私は、今夜はここへ泊りますから、貴方は自由に帰ってくだ
さいッ」という言葉と、蒲団を被って畳を転げまわる身体行動で、富岡を
がんじがらめに束縛する。富岡はゆき子にたいして〈自由〉に振る舞うこ
とがどうしてもできない。が、ゆき子もまた富岡を自分の自由にすること
ができない。相手を脅したり、束縛したりまでして自分のものにしておき
たいという欲求は〈愛〉ではない。強いて〈愛〉という言葉を使うなら、
それは〈自己愛〉と言うべきものである。
ゆき子は、「でも、あの時は、貴方は私には贋物には見えなかった」と
まで口にした。ということは、ゆき子は今は、富岡の贋物であることがは
っきりと認識されているということだ。ということは、ゆき子は〈贋物〉
の富岡に、今でも執着し、惚れているということになる。ということは、
男と女の性愛的関係において、相手の〈贋物〉性などとるにたりない一要
素でしかないということだ。
ゆき子の言動は、ただひたすら富岡を失いたくない、妻の邦子が待つ家
に帰したくないという思いから発している。富岡は家に帰ることもできず、
かと言ってゆき子のそばにいるわけでもない。富岡は〈邦子〉と〈ゆき
子〉の間に宙づりにされたまま一歩を踏みだすことができない。
ゆき子は富岡を追い詰め、追い詰めて、「森閑とそこに坐ったまま」に
しておく事しかできない。いずれにせよ、〈十六〉の終幕場面は、男と女
の修羅場の究極の姿が見事に描きだされた場面と言える。

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