2009
10.16

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載29)

寺山修司・関係

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『百年の孤独』を味わう
五十嵐 綾野
 
『百年の孤独』という焼酎がある。私はこれがとても貴重な焼酎であることを全く知らなかった。かなり、熟成が進んでいたので深い琥珀色をしている。見た目は、とろみがついていそうな感じである。なによりも、焼酎とは思えない甘い香りが忘れられない。
 その琥珀色を見ながら私が考えていたのは寺山修司の映画『さらば箱舟』のことである。この作品はガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』をモチーフにして寺山が映画化した。寺山はこの作品世界に非常に興味を持ったという。それは、少年時代の自分の体験と似ているからだ。小説には、原始的な架空の都市コマンドが近代化することによって崩壊していく様子が描かれている。寺山はこれに、自分の少年時代を過ごした田舎町に、アメリカ軍の進駐によって町が変化していくのを重ねたというわけである。
 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は終わりのないおしゃべりを聴いているようだ。ページをめくってもめくっても言葉が続いていく。あれだけ色々な展開をしていくのだが、読み終わると寂しい気持ちになる。読むのが大変で虚無観しか残らないというのはなんなのだろうか。その辺りが『百年の孤独』というタイトルに繋がっているのだろう。
閉じられた世界で、似たような名前の登場人物が次々と現れ、消えていく。変な酔い方をしてしまった。途中、読むのを止めたくなったが、止めたら最後この小説の世界から抜け出せないのではないかという恐怖感があった。寺山が興味もつ作品というのは大抵インパクトとダメージが残る。これは共通していることである。
 『さらば箱舟』はそんな発想から生まれた映画なのである。ある意味自伝的である。そして、寺山が好みそうな世界である。この作品は、体調の悪化に耐えながら必死に撮り続けた遺作でもある。1981年に肝硬変で入院。その翌年の1982年に撮影が開始された。少しでも体に負担をかけないように、暖かい沖縄が撮影場所であった。
 特にラストが印象的だ。村を追われた人や姿を消してしまった人たちが、次々と現代化した町に帰ってくる。どの人も幸せそうな笑顔で懐かしそうな表情を浮かべている。そしてみんなで写真を撮る。
私はこの場面を見るととても悲しくなってくる。他の映画作品は何度も見ているが、これはまだ二回しか見たことがない。辛いのである。元々、遺作と言われているせいもあり、死の匂いが濃厚である。なぜこのような気持ちになるのか不思議である。寺山がこのラストの場面を通して、今まで自分に関わった全ての人にお別れを言っているようであった。
当時、『百年の孤独』というタイトルであったが、原作者著作権の問題で、ガルシア・マルケス側との折り合いがつかず、完成するも公開が遅れていた。1983年4月22日に意識不明に陥った寺山は5月4日に死去する。なんとか寺山の生きているうちに公開したいという思いは届くことはなかった。公開されたのはその年の9月であった。
「隣の町なんて、どこにもない…神様トンボはうそつきだ。
 両目とじれば、みな消える…隣の町なんかどこにもない…
 百年たてば、その意味わかる!
 百年たったら、かえっておいで!」
これは映画に出てくる言葉である。これは寺山の「謎かけ」として語られている。寺山がこの世を去って、百年目に何かが起こるのではないかと囁く人もいる。これが本当に「謎かけ」なのか、何かのメッセージなのかはわからない。寺山は饒舌である。ガルシア・マルケスも同じである。とにかく寺山を百年読み続けたい。

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