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林芙美子の文学(連載65)林芙美子の『浮雲』について(63)

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「江古田文学」71号より
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林芙美子の文学(連載65)
林芙美子の『浮雲』について(63)

(初出「D文学通信」1269号・2009年10月14日)
清水正


富岡は過去のことなどすっかり忘却の彼方に追いやって、
新しい生活を始めたいと願っているのに、ゆき子という
〈過去の女〉が執拗にまとわりついて離れようとしない。
ゆき子は〈過去〉を引きずりながら〈現在〉を生きる女で、
〈過去〉を抹殺して新しい人生の幕を開けることができない。


2009年10月10日(土曜)
しばらくして、ゆき子が冷い風に吹かれたのか、赧い顔をして戻って
来た。
「ねえ、またお寿司買って来ちゃった。お酒も、ほら、壜にいっぱい分
けて貰ったのよ」
ゆき子はビール壜を窓に透かすようにして、富岡へ見せた。ゆき子は、
冷い残りの茶を、乱暴にも、火鉢の隅へあけて、それへ酒をついだ。
「私が、初めに、お毒見よ」と、茶碗に唇をつけて、半分ほどぐっと、
飲んだ。
「ああ、おいしい。胸も、おなかも焼けつくようだわ」
富岡は酌をされて、これも息もつかずに、一息に酒を飲んでしまった。
ゆき子はまた茶碗へ酒をついだ。
「ねえ、今夜、泊って……いけないかしら。もう、今度だけで、無理を
云いませんわ。もし、この家が厭だったら、何処へでもいいわ。お金が足
りなかったら、私、いいものここに持ってるから、もっと気持ちのいいと
ころに泊てもいいわ」
急に熱いものがこみあげて来て、富岡は、ゆき子の手を握った。どん
な感情も心にしまってはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかった。
家庭を背負った、重い環境に押しひしがれていた気持ちから解放されて、
酒の勢いを借りたせいか、富岡はゆき子の手の指を唇に噛んだ。
「もっと、ひどく、ひどく噛んでよ」
富岡は、ゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は堪えられなくなった
のか、富岡のゆすぶっている膝へ顔を伏せて、くっくっと泣いた。
「私は、こんな女になってしまって、自分でも、判らなくなっているン
です。どうかしてしまって下さい。どうでもしてしまって下さい……」
ゆき子は泣きながら、両の手で、富岡の膝をさすりながら云った。部
屋の中は暗くなり始めている。賑やかな市場の呼び声が風の工合か判然り
と聞える。富岡はゆき子の頭髪に唇をつけたが、自分の心にはそうした事
が、芝居じみてむなしい事をしているように思えた。
(221 ~222 〈十
六〉)
逃げたい男といつまでも一緒にいたいという女のやりとりを林芙美子は
実に丁寧に描いている。富岡はゆき子から逃げたいが、ゆき子に家を発見
されている以上、逃げきることはできない。ゆき子のことであるから、彼
女が酒を買いに出かけている間に、部屋から逃げ出したところで、何度で
も家に押しかけてくるだろう。〈別れのカード〉を出したところで、そん
なカードをすんなり受け取るはずもない。ゆき子は、富岡を家に帰したく
はない。「今日は駄目だ」と言われても、何度でも同じ言葉を口にする。
男と女の関係は論理や倫理で割り切れるものではない。富岡は急に〈熱
いもの〉がこみあげて来て、ゆき子の手を握る。林芙美子は「どんな感情
も心にしまってはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかった」と書
いている。富岡が、ゆき子にたいして、ただうざったい感情を抱いていた
のではなく、愛らしさをも感じていたことが、二人の腐れ縁を長引かせる
ことになっている。
富岡は邦子との平凡な生活にのみ生きることができない。家庭の重圧か
ら解放されて、一時の悦楽に逃れたいという気持ちもある。ただし、その
相手は〈過去の女〉であるゆき子ではなく、ほかの新しい女を求めている。
富岡は過去のことなどすっかり忘却の彼方に追いやって、新しい生活を始
めたいと願っているのに、ゆき子という〈過去の女〉が執拗にまとわりつ
いて離れようとしない。ゆき子は〈過去〉を引きずりながら〈現在〉を生
きる女で、〈過去〉を抹殺して新しい人生の幕を開けることができない。
今、ゆき子の眼前に膝を貧乏揺すりさせている男は、ゆき子との過去を
しっかり受け止めて、二人の〈現在〉と〈未来〉を背負ってくれる男では
ない。この男は仕方なく〈義務〉を果たそうとしているだけの男で、酒の
勢いを借りてゆき子の手を握り、指を噛んだりしているが、それは熱い性
愛の感情に突き動かされてのことではない。強いて言えば、それはゆき子
にたいする憐憫に似た感情から出た行為であり、富岡はその行為が〈芝居
じみてむなしい事〉であることを冷徹に意識している。
もはや酒の勢いを借りてすら、ゆき子との間にできた深い溝を埋め合わ
すことはできない。ゆき子は富岡に指を噛まれながら、しかし富岡の気持
ちは自分に向けられていないことを知っている。ゆき子は富岡の〈ゆすぶ
っている膝〉へ顔を伏せてくっくっと泣く。自分が心の底から求めるもの
が、目の前に存在していて、お互いに肌を触れ合いながら、しかしそれが
最も遠い所にある。一番近くにいる愛する人が、最も遠い所にいる。ゆき
子がいくらくっくっと泣いても、富岡は遠い所に居続けて、戻ってくるこ
とはない。

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