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林芙美子の文学(連載60)林芙美子の『浮雲』について(58)

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林芙美子の文学(連載60)
林芙美子の『浮雲』について(58)

(初出「D文学通信」1264号・2009年10月09日)
清水正


ゆき子という蔓科の植物はダラットから日本
に帰国してまで、枯れるどころかますます繁茂し、
富岡の私的〈領域〉に侵入して、その蔓を巻きつけてくる。
その執拗な常軌を逸した情熱に、
富岡は辟易しながら、逃げきることができない。
逃げようと決めた男を、
それと知って逃がさない執念を持った女がゆき子である。


金の負担もかけない、邦子と別れて〈奥さん〉にしてくれとも言わない、
でも、「時々逢って下さい」というのであるから、こんな切ない要求もな
いが、富岡にしてみればこれほどうざったく厄介な要求もない。
さて、富岡はどのような反応を示すのか。
富岡は冷い茶をすすりながら、寒いので、膝を貧乏ゆすりして、ゆき
子のヒステリックな口説を聞いていた。ゆき子は三日も放っておかれた淋
しさで、富岡を見るなり、あれもこれも喋舌りたかった。
「部屋は探して下すってるンですの?」
「探しているさ。部屋一つ位と思うだろうが、こんなに焼けたンだもの、
仲々みつかるもンじゃない。たとえみつかっても、何万円と権利金が要る
ンだ。もう、一寸待ってくれよ……」
「そりゃア、貴方は一軒の家に住んでいらっしゃるから、何となく落ち
ついていらっしゃるけど、私は宿無しなのよ。現在泊っている処は、私の
住める義理合のない家にいるンですもの。……早く、私だけの居場所が欲
しいのよ。親類が疎開しちゃって、その後を知らない人達が住んでる、そ
の家へ、ほんの数日と云う事で借りてるンですもの、辛くて仕方がないわ
……」
(219~220 〈十六〉)
冷い茶をすすりながら膝を貧乏ゆすりしている男と、ヒステリックな口
説をねちねちと続ける女、別れたくて、別れの言葉を口に出せない男と、
相手の気持ちを全部判っていて、決して自分から別れ話を持ち出さない女、
この男と女のどうしようもない関係の現場を林芙美子は実に丁寧に描き続
ける。批評の言葉に直せば、たった一言ですむ男と女の腐れ縁を、これで
もかこれでもかと執拗に描き続ける。まずはその執拗な情熱に脱帽したく
なる。
〈三日も放っておかれた淋しさ〉と林芙美子は書く。〈三日〉は富岡に
してみれば短すぎる日数である。ゆき子と別れたい一心の富岡にしてみれ
ば、〈三日〉は悪夢のような瞬間に等しい。ゆき子は、毎日、富岡と一緒
にいたい。邦子と共に生活している富岡に我慢ができない。富岡は、邦子
との平凡な生活に充足して、面倒な事にはいっさい係わりたくない。
自分が蒔いた種とは言え、それが予想に反して強靱な生命力で繁茂し続
けるとは思っていなかった。ゆき子という蔓科の植物はダラットから日本
に帰国してまで、枯れるどころかますます繁茂し、富岡の私的〈領域〉に
侵入して、その蔓を巻きつけてくる。切っても切っても、次から次へと枝
を延ばして巻きついてくる。その執拗な常軌を逸した情熱に、富岡は辟易
しながら、逃げきることができない。逃げようと決めた男を、それと知っ
て逃がさない執念を持った女がゆき子である。
哀しく、切なく、うざったい女ゆき子は、自分の住む〈家〉のことに話
しの焦点を合わせる。邦子のこと、離婚や結婚のことは、いくら振っても
富岡が乗ってこないことを知ったゆき子は、富岡の〈義務感〉にすがりつ
いて、〈家〉のことを話題にする。富岡がいったんその話しに乗ってくれ
ば、ゆき子はそのことに絡みついて放さない。富岡は、新しく住む家を探
すことがいかに困難であるか、あっても何万円という〈権利金〉が必要だ
と話す。ゆき子は自分が〈宿無し〉であること、今は〈義理合のない家〉
にいることを強調して、富岡の〈義務感〉を執拗に煽る。
ここにもゆき子の巧妙な戦略の一端が窺える。ゆき子は、設定上から言
えば、帰るべき〈実家〉があり、普通だったら、日本へ引き揚げてきて、
まっすぐに帰らなければならなかった家は静岡の実家だったはずである。
三年間、不倫の関係を続けていた伊庭の家を訪ねたこと自体が、不自然で
ある。伊庭が離婚して独り暮らしをしているのならまだしも、子供もいる
平凡な家庭の中に、かつての愛人が知らんふりして、再び入り込んで行く
こと自体が卑劣の極と言える。伊庭夫妻は疎開して不在であったが、それ
にしてもその家に上がり込んで、伊庭の荷物まで売り払ってしまうのであ
るから、ゆき子の神経は尋常ではない。

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