2009
10.07

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載11・12)

日本文学特論Ⅱ

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連載11
もし、私がルージンにプロポーズされたら
連載12
小林秀雄「罪と罰」についてⅠ・Ⅱを読んで


連載11
もし、私がルージンにプロポーズされたら
経済力と、社会的な地位を持つ男に引かれる女性ならばルージンはその願いをかねてくれるだろう。
もし見合い相手にルージンが現れたのなら、私は間違いなく彼に会ってみる。経済力と社会的な地位、この二つのワードに惹かれないわけがない。しかし、彼と会って話すうちに、どんなに理路整然と物事を言われようが、ルージンがプリヘーリヤに言った「夫が妻に負い目を感ずるようなことがあってはならないし、それよりは、妻が夫を自分の恩人と見ているほうがずっとよい」というような事を言われたならば、私は彼にそこにある水を引っ掛ける。冗談ではないからだ。ルージンは間違いなく女性を蔑視している。妻は夫の三歩後ろを歩いてついて行く、と言った考えは私にはない。同じ目線で考えてくれる男性が良い。ルージンとは言い争うばかりで決して何も生み出さないことがわかる。
ドゥーニャが抱える問題がなかったならば、彼女だってルージンなんか願い下げだっただろう。結果として彼女がルージンではなくラズミーヒンを選んだことに私は納得した。ルージンと共に過ごす未来より、ラズミーヒンと過ごす未来の方がドゥーニャにとって明るいことは一目瞭然だろう。
ルージンを受け入れることができる可能性がある女性が、『罪と罰』の中にいるとするならば、ソーニャが一番それに近いかもしれない。だが、ルージンのソーニャに対する浅はかな計画から見れば、ルージンにとってソーニャは対象外であることがうかがえる。
ルージンの行動を読み返せば読み返すほどに、なんと底の浅い男であるのかと思う。
その場しのぎすぎるその行動を見ていると、彼の本業である弁護士業だって疑わしい物に思えてきてしまう。いや、綿密に裏を取っていく弁護士といった職業だからこそ、ルージンはやっていけているのかもしれない。資料がないと何もできない、アドリブが利かない弁護士もどうかと思うが、やはり法学部を卒業しただけあって頭は良いのだろう。頭が良いことと、頭が切れることは全く違う。そういった点からしても、ルージンはスヴィドリガイロフに劣る。
私が、いかにルージンが嫌いであるか僅か書いたが、少し視点を変えてルージンの魅力はどこかと捜してみると、経済力と社会的地位それと馬鹿であるといった三つしかなくて驚いた。読者の中にルージンほど魅力のある男がいないといった方がいるならば申し訳ないが、私にはこれしか彼をほめることができない。
はっきりいって、私はルージンが大嫌いだ。初めて『罪と罰』を読んだ時には名前すら記憶になかった男なのだ。ドゥーニャに婚約を申し込んでソーニャを罠にはめた男といった以外に思い浮かべることができなかった。
ラスコーリニコフよりスヴィドリガイロフに心奪われてしまった私にとってルージンの存在はあまりにも小さい。
万が一、ルージンにプロポーズされたなら答えは速攻で「無理」だ。スヴィドリガイロフに求められたのならば考えるが…
経済力と社会的地位は自分でもぎ取るつもりだから、ルージンはいらない。といって断る。ルージンについて考えていくと腹が立ってくるので彼に対してはしばらく何も考えたくない。
連載12
小林秀雄「罪と罰」についてⅠ・Ⅱを読んで 
 小林秀雄の文章を初めて、時間をかけて読んだ。何度も読み返して気付いたら夏休みが終わっていた。大げさかもしれないが、いくら読んでも、彼の書く文章が理解できなかった。彼の書く文章は、やや難しい言葉であふれている。
彼は、『罪と罰』について、Ⅰ・Ⅱと二回に分けて書いているのだが、「『罪と罰』についてⅠ」を書いたのは昭和9年のことで、彼が32歳の時だった。彼の言葉は、はっきり言って回りくどく、なかなか読み取ることができない。それは、私が未熟であるが故なのかもしれないが、それにしても結局何が言いたいのか、言いたいことが多すぎてそれをたった二回の論でまとめ上げてしまうのは、簡単すぎやしないだろうか?
小林秀雄は、「極普通の意味でも、この作は彼が本当に小説らしい小説を書いた最初のものだし、彼が本当に彼らしい世界を拡げて見せた最初の小説だ」と「『罪と罰』について」の冒頭にもってきている。小林秀雄が言う、ドストエフスキーらしい小説とは何か、ドストエフスキーらしい世界とは何か、その答えはどこにあるのだろうか。
「『罪と罰』についてⅠ・Ⅱ」は文章の構成が違う。ⅠよりⅡの方がより細かく作品に対して書かれているのが、Ⅰであげた彼なりの疑問点は、Ⅱでも明確な答えが描かれてはいない。答えを私は見つけ出すことができなかった。
また、『罪と罰』の主人公はラスコーリニコフであることは、多くの読者は共感するだろう。しかし、『罪と罰』において、ラスコーリニコフが、作品の要であるとは私は思えない。作中に出てくる人物一人一人に対してドストエフスキーが、考え抜いて生み出したものであることは間違いないだろう。マルメラードフ、ソーニャ、スヴィドリガイロフ、など彼らの存在を、ラスコーリニコフを中心に登場してきた人物、と片付けることはできない。
『罪と罰』の中で、スヴィドリガイロフこそ真の主人公であると考える評論家に対して「僕は意見を異にする」と小林秀雄は言っているが、また同時に「彼は主人公の影だ」とも言っている。『罪と罰』の主人公がラスコーリニコフであるとして、その「影」であるスヴィドリガイロフは、主人公でないにしても、少なからずラスコーリニコフとは切っても切り離すことのできない存在ではないだろうか。スヴィドリガイロフの存在は、「影」ではない。はっきりと、形を持った一人の人物であると私は思うからこそ、小林秀雄のまとめ方は腑に落ちない。確かに、ラスコーリニコフを中心として読み進めていけば、登場してくる人物はラスコーリニコフの輪の中に納まる。その輪の中に納まってしまうからこそ、人物たちはそこで役目を終える、私はそれで良いとは思えないのだ、『罪と罰』は登場人物たちにあるそれぞれのドラマが中途半端に終わりすぎている。
『罪と罰』を書いたドストエフスキーに対して、小林秀雄は少なからず評価をしている。私は『罪と罰』を小林秀雄ほど評価することが出来ない。ラスコーリニコフを始めとする登場人物達をドストエフスキーならば、より綿密に登場人物を書くことができたと私は思うのだ。
大学院前期、ドストエフスキーの作品『罪と罰』について、主要の登場人物に焦点をあて、ほぼ毎週、短くはあるが書いてきた。それでもがまだまだ書くことが溢れてくる。
小林秀雄が主に焦点をあてているのは、やはりラスコーリニコフだ。『罪と罰』で彼の存在は切り離せない、それをふまえれば当然のことなのだが、小林秀雄が読み解くラスコーリニコフと、私が思いえがくラスコーリニコフは違う。もちろんこれは当然のことだろう。小林秀雄の文章の書き方は、外堀をしっかりかためて攻めてくる。私は、感覚のままに、それこそ外堀を無視して書いているようなものなのだから、当たり前なのだ。しかし、外堀をしっかりかためた上ならば、最も重要となる部分はそれ以上に書かれるべきではないのだろうか。
逆に言えば、小林秀雄にとって、『罪と罰』はそこまで書くことがなかったのかもしれない。「『罪と罰』についてⅠ」の中に、ドストエフスキーのほかの作品との比較が出てくる。彼は、「『罪と罰』について」と題にもってきながら、ドストエフスキーの他の作品について書いている節が所々にみれる。確かに、作品を論じていく中で、作者の他の作品と比較することは私にもあるが、その引用方法がうまく受け入れる事が出来ない。理解できないのなら、その作品を読めば済むことだが、ドストエフスキーの作品は私にとって一筋縄ではいかない。『罪と罰』でさえそうなのだから、他の作品なら尚更ではないではないだろうか。
小林秀雄の書いたものを全て読んでいない私が言うのもおこがましいが、『罪と罰』についてⅠ・Ⅱを読んでも彼が何を言いたいのか分からなかった。彼の考えが書かれるのにたいして、「それで?」と、明確な答えを求めるが、書かれていないと思える。
「『罪と罰』について、二つに渡るこの論は、結果としてまとめられてはいるが、小林秀雄ならもっと書くことがあったのではないだろうか。

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