林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載43)
林芙美子の『浮雲』について(41)
(初出「D文学通信」1247号・2009年09月22日)
清水正
男と女の腐れ縁の現場が
これでもかこれでもかと執拗に描かれながら、
その現場から腐った臭気が漂ってくることはない。
富岡は泥水のなかへ寝転んで動こうとしないゆき子を、
平然と跨いで自分自身の道を歩むことができない。
「
2009年7月27日(月曜)
日の落ちるのを眼の前にして、ゲッセマネにおいての、残酷なほどの痛
ましい心の苦闘を、もう一人の分身として、そこに放り出されている現実
の己れに富岡は委ねてみる。神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せん
やである。この女とともに行くべきであるとも、富岡は想う。両親も家庭
も、かりそめの垣根でしかあり得ない気がして、もう一度、その垣根を乗
り越えて、この女と人生をともにすべきだと、富岡は酔いのなかで、誰か
の声を聞くのだった。日本人の萌芽期はすでに去ったのだと、彼は自分の
酔いのなかで、自分で大演説をしなければならないような錯覚にとらわれ
ているゆき子を抱きかかえて、久々で二人はしみじみと唇を噛み合わせて
いた。
夜になってからは、旅館のなかも少しずつ騒々しくなり、ときどきは、
不作法な夜の女が、部屋を間違えて、ゆき子たちの襖を開けたりする。二
人は平気で離れなかった。風のかげんか、省線の電車の音が轟々と耳につ
く。蒲団の上にぬぎっぱなしの二人の洋袴が、人間よりもかえって生々と
みだらにみえた。 (211 ~212 〈十四〉)
男と女の腐れ縁の現場がこれでもかこれでもかと執拗に描かれながら、
その現場から腐った臭気が漂ってくることはない。汚れて点々と煙草の焼
け跡が残っている畳、緑色の壁、赤い無地の蒲団、油でべとべとに光って
いる枕、二人が通された四畳半の小部屋には卓子もなければ火鉢もない。
そんな殺伐とした部屋で、決定的な別れの言葉を口にできずにひざ小僧を
抱えている男と、行くあても帰る場所もない女が、酒の勢いをかりて、何
の感動もないこおろぎのような交尾をして繋がっている。
富岡は泥水のなかへ寝転んで動こうとしないゆき子を、平然と跨いで自
分自身の道を歩むことができない。「私はどろどろにおっこちていきま
す」というゆき子の言葉は単なる脅し文句ではない。墜ちて行くほかない
女が、かろうじて延ばした手の先に逃げきれずにもたもた恰好だけつけて
いる見栄っ張りの富岡がいる。この男が、逞しい両腕でゆき子を泥沼から
引きずり出してくれるわけでもない。むしろこんな中途半端な男と未練た
っぷりに再会して何の感動もない情交を重ねるよりは、ゆき子の方からき
っぱりと逆三行半を叩きつけた方がお互いに救われたであろう。
問題は、二人ともに救われたいとは願っていないところにある。この二
人の男と女は、浅瀬の泥沼のなかで、お互いに泥に塗れてこおろぎのよう
な交尾を繰り返すほかはないらしい。
富岡は何を悩んでいるのだろうか。富岡はダラットでゆき子と知り合う
前、ニウか邦子かで悩んだ形跡はない。ゆき子と関係を結んだ後も、富岡
はゆき子か邦子かで悩んだようには思えない。日本に帰る前、富岡はゆき
子との結婚を約束するが、それは要するに寝物語の口約束のようなもので
あって、そんな約束を信じたゆき子がばかだったということになる。ゆき
子と結婚を約束して邦子と別れずにいる富岡が、邦子にいったいどのよう
な言葉を発していたのか興味のあるところだが、描かれた限りで判断すれ
ば、富岡は自分に都合の悪いことは何も邦子に語ることはなかったであろ
う。
邦子がゆき子のような積極的な女であれば、富岡を責めたてて、富岡に
〈あれかこれか〉の決着を求めたであろうが、どうも邦子はゆき子とは対
極の女で、夫富岡の内部にまで執拗に迫っていくことはなかったと思われ
る。富岡に何の悩みもなかったわけはないが、〈あれかこれか〉で深く悩
むためには、妻の邦子が、〈これ〉を強烈に主張する存在感のある女であ
るゆき子と同じ比重で、〈あれ〉を強く感じさせる女でなければならない。
作者林芙美子は、どういうわけか邦子に真っ正面から照明を与えることは
なかった。読者は意識的に、描かれざる邦子を、描かれざる邦子と富岡の
関係を想いえがかないことには、邦子はまるで〈富岡の妻〉という名刺以
上の存在感を持つことができない。
富岡はゆき子に別れのカードを切るつもりで、池袋の旅館にまでやって
来た。このこと自体が富岡の甘さである。富岡はゆき子を切るつもりが、
むしろゆき子と共に行くべきであるとも想い始める。「両親も家庭も、か
りそめの垣根でしかあり得ない気がして、もう一度、その垣根を乗り越え
て、この女と人生をともにすべきだと、富岡は酔いのなかで、誰かの声を
聞くのだった」こういう文章を読んでいると、わたしなどはラスコーリニ
コフの〈踏み越え〉を想い出してしまう。
ラスコーリニコフは「おれにアレができるだろうか」と考えて、結局、
悪魔の唆しに乗って二人の女を斧で殺してしまった。『罪と罰』という物
語は、主人公の殺人という踏み越えが大きな題材となっているが、基本的
にはここで富岡が考えていることはラスコーリニコフのそれと同じと言っ
ていい。ラスコーリニコフは二人の女を殺すことで〈かりそめの垣根〉で
しかない家族との絆を断ち切って、娼婦で狂信者のソーニャと運命をとも
にすることを選んだ。
ゆき子はすでに帰るべき場所を持っていない。設定上、ゆき子の実家は
静岡にあるが、読者はゆき子の両親、兄弟姉妹に関して具体的なことを何
一つ知らない。知っていることと言えば、ゆき子の姉が伊庭鏡太郎に嫁い
でいたこと、ゆき子が三年もの間不倫の関係を続けた伊庭杉夫は鏡太郎の
弟で妻子とともに東京に住んでいたということぐらいである。ゆき子はダ
ラットに行く時も、故国に引揚げて来た時も、静岡の実家に帰ろうとはし
なかった。そこにどんな事情があったかに関しても、作者は何も説明しな
い。
結果的には、ゆき子は故郷を捨てた女であり、富岡よりも先に家族との
絆は断ち切っている。ゆき子にはまさに文字通り帰るべき故郷はなく、ダ
ラットでの夢のような生活も、仮の、かりそめの楽園生活でしかなかった。
夢は覚めなければならない宿命を負っている。現に、敗戦で富岡もゆき子
も廃墟と化した故国に引揚げて来なければならなかった。夢の覚めたゆき
子に、再び夢の持てる現実は用意されていなかった。富岡は、酔いのなか
でゆき子とともに人生をともにすべきではないかと考えるが、二人で目指
す人生の確固たる目的があったわけではない。
「日本人の萌芽期はすでに去ったのだと、彼は自分の酔いのなかで、自
分で大演説をしなければならないような錯覚にとらわれているゆき子を抱
きかかえて、久々で二人はしみじみと唇を噛み合わせていた」と作者は書
いている。まさに、彼らの情交はこおろぎの交尾に終わるしかないし、唇
を噛み合わせる接吻にもまた空虚な風が吹いている。両親も家庭も〈かり
そめの垣根〉でしかないとしても、富岡とゆき子の関係もまた〈かりそ
め〉のものでしかないのである。
『罪と罰』の読者は、殺人を犯したラスコーリニコフが最後の最後まで
〈踏み越え〉に〈罪〉を感じなかったことを知っている。そんなラスコー
リニコフがエピローグで復活の曙光に輝くことも知っている。ラスコーリ
ニコフは母と妹との絆を断ち切り、ソーニャとの新生活に踏みだすことに
なる。少なくとも、ドストエフスキーはそのように描いてペンを置いた。
この大小説に感動する読者は二十一世紀の今日においても後を絶たない。
わたしは『罪と罰』のラスコーリニコフの殺人と復活の曙光に輝く場面
に二十歳の昔から納得がいかなかった。わたしにとってリアリティがある
のは、殺人を犯さないラスコーリニコフであり、間違っても復活の曙光な
どに輝かないラスコーリニコフである。もし、ラスコーリニコフが殺人を
企てるのであれば、高利貸しの老婆ではなく、諸悪の根源と考えられる当
時の専制君主である皇帝以外にはない。革命家であり、テロリストである
ラスコーリニコフという設定であれば説得力があるが、夫に先立たれた上
に腹違いの妹を抱えて高利貸しとして懸命に首都ペテルブルクを生きてい
た老婆アリョーナを殺しの対象とする青年などみみっちくてどうしようも
ない。
否、ラスコーリニコフはみみっちい青年なのである。母親のプリヘーリ
ヤを殺せないからアリョーナ婆さんに斧を振り上げたような卑劣で卑小な
青年がラスコーリニコフである。『罪と罰』という小説から、ラスコーリ
ニコフの内部の声をすべて省略すれば、実につまらない小物の卑劣漢が現
れることになる。