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林芙美子の文学(連載37)林芙美子の『浮雲』について(35)

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林芙美子の文学(連載37)
林芙美子の『浮雲』について(35)

(初出「D文学通信」1241号・2009年09月16日)
清水正


人間は何にでも慣れるものだ、と書いたのは
ドストエフスキーである。
ドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた富岡のことだ、
自分の卑しさとニコライ・スタヴローギンのそれとを
重ね合わせていたかもしれない。
敗戦後、日本人の誰が鏡に映った自分の顔を凝視しただろうか。
鏡に映った自分の顔をしっかりと見て、自問自答した日本人が
はたして何人いたのか。


2009年7月7日(火曜)
富岡は鏡を覗きこんで、そこにいったいどんな自分の〈顔〉を見いだし
たのであろうか。林芙美子はこのときの富岡の顔を描かない。のっぺらぼ
うの虚無の顔があっただけなのだろうか。富岡は〈毒食わば皿までの心
理〉で〈心にひやりとする刃〉を頬にあてて髯を剃る。男としての誇りが
少しでも残っていれば、伊庭の使いつけの安全剃刀など使わずにいたろう
が、妻の死の翌日の午前中にゆき子と肉の交わりをする富岡にそんな誇り
など微塵も残ってはいない。作者は、こんなところにまで〈行きついた人
間〉の〈卑しさ〉が富岡には〈苦い〉ものでもあったと書いている。
人間は何にでも慣れるものだ、と書いたのはドストエフスキーである。
ドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた富岡のことだ、自分の卑しさと
ニコライ・スタヴローギンのそれとを重ね合わせていたかもしれない。
「些細なことで、現実はすぐ変化する」「案外傷ついてもいない。すぐ、
起きあがって微笑む」こういった言葉は戦争をくぐり抜けてきた者の言葉
として聞かなければならない。
日本が戦争に負けたこと、そのことが〈些細なこと〉であったことに間
違いはない。現人神だった天皇は人間天皇となり日本国の象徴となった。
鬼畜米英と悪罵された敵国は戦勝国となって日本を占領し、貧苦に喘ぐ日
本の子供たちはギブミーチョコレートを連発する。一部の女たちは占領軍
の米兵たちの性的玩具となりはてた。日本の男たちは大和魂と戦闘心を失
って、ひたすら忍従し口を噤んだ。変わり身の早い小賢しい者だけが、先
住民のインディオを暴力によって駆逐した戦勝国のヒューマニズムを受け
入れて軽口を叩くようになった。民主主義という美名のもと、大日本帝国
は大と帝をはずされ、戦勝国の属国となったが、未だにそのことに気づか
ない日本人は多い。広島と長崎に原爆を落とされ、無条件降伏した日本は、
囲われ管理された〈民主主義〉という甘い檻の中で敗戦後の時空を生かさ
れている。
2009年7月8日(水曜)
敗戦後、日本人の誰が鏡に映った自分の顔を凝視しただろうか。鏡に映っ
た自分の顔をしっかりと見て、自問自答した日本人がはたして何人いたの
か。富岡は自分の顔は凝視せず、自分の卑しさを感じている。伊庭も卑し
い男だ、しかし伊庭の留守にあがりこんで、妾のゆき子を抱き、風呂に入
り、伊庭の剃刀で髯を剃っている富岡もまた言うまでもなく卑しい男であ
る。富岡は、この卑しい感情を激しく糾弾する何ものをも持っていない。
ニコライ・スタヴローギンのように、神に成り代わって十一歳の少女を凌
辱し、死に追いやるなどという高慢な実験精神ははじめから持ち合わせて
いない。
富岡は自分のそのつど、そのつどの欲望に従順なだけの男で、その欲望
を拒む内的根拠を持っていない。富岡は惨めで、図々しくて、狡い男で、
性欲の強い男である。
  昼の食事をととのえ、伊庭の飲み料にしているサントリウイスキーを
卓上に並べたころ、富岡が活々した血色で風呂から上って来た。かいがい
しいゆき子の姿を、富岡は不思議そうに眺め、二人だけの歓びが、ひそか
に営まれているのを盗人の心理で眺めていた。二階では犬がやかましく吠
えている。富岡は炬燵にもぐって、かすかな目まいを感じていた。ウイス
キーを二三杯あおった。全身を刺戟する酒の味が、銷沈した富岡の気持ち
をいくぶんか明るくした。
やっとおばさんが戻って来た。見知らぬ客を見て、おばさんはとまど
っていたが、その客をあしらうゆき子の態度から、おばさんはこれが漆の
旦那だなと思った様子だった。ゆき子は箪笥から、二万円の金を出した。
ほんのちょっと、惜しい気もしたが、気前よく、新聞に包み、富岡の座布
団の下へ押し込んだ。富岡は眼で感謝した。
一時に、教会へ行くゆき子と、富岡はいっしょに戸外へ出て行ったが、
ゆき子はゆっくり歩きながら、
「あなたは、これから、どうするつもりなのよ?」と、聞いた。
「どうするって、ご覧のとおりだ。この金も、さっそくには返せる当も
ないよ。いいかい?」
「ええ、いいわ。そんなことはいいンだけど。やっぱり、目黒の、あの
部屋にいるの?」
「ああ」
「ねえ、もう一度、逢いたいけど……」
ゆき子は、別れがたない気がした。邦子が亡くなってみれば、もう、
誰にも遠慮なく、富岡ともいっしょになれるような気がした。だが、まだ、
これから棺桶を買いに行く富岡をつかまえて、いっしょになる話は、さし
ひかえなければならない。富岡は、もう一度逢いたいと言われて、ゆき子
の気持は充分判ってはいたが、なぜかそこまで話しあうのも億劫だった。
まして、自分の生活能力のない現在では、ゆき子に、何一つ要求できるも
のでもないのだ。
田園調布の駅で、二人は奥歯にもののはさまっている感じで別れた。

(360 〈五十一〉)
伊庭が係わっている宗教は大日向教で、教主の成宗専造の寝室には大金
庫があってそこに全財産が隠されている。受付の小金庫にも二三十万の金
が置いてあり、ゆき子はこの日、金庫の中の金を全部盗み出す決心を固め
ていた。富岡は無頼漢のような気持ちでゆき子に金を借りに来たが、ゆき
子はゆき子で伊庭と決着をつける気で教会の金を盗み出す計画をたててい
た。
富岡と別れた後のゆき子の心理を作者は「富岡の貧しさが、哀れでも
あったが、生活力のなくなっている男へ対しての魅力は薄れかけて来た気
がした。あの時、自分の背中の金庫から、あり金をさらって、富岡と逃げ
たい気持ちだったものだが、いまは妙に落ちつき、ゆき子は、まだ、二三
時間はものを考える時間があると思った。
(361 〈五十一〉)
電気蒲団で腰があたたまって来ると、ゆき子は、富岡の荒々しいあの
時の力を、微笑して思い出していた。いつまでも心の名残りになるような、
あの時が、肉体の一点に強く残っているそのことを考えると、富岡に対し
て平静にはなれなかった。富岡のすべてに惹かされる愛情が、自分の血液
を創るための女の最後のあがきのような気もして来て、富岡にだけは、そ
の愛情が安らかに求められる思いがした。
(361 〈五十一〉)
2009年7月9日(木曜)
林芙美子は男と女の生理や心情に関して寛容である。基本的にタブーは
ない。富岡は妻があっても他の女と関係するし、ゆき子に妻と別れて一緒
になると約束しても、その約束に縛られることはないし、妻の邦子がどん
なに惨めな死に方をしても、その翌日にゆき子と肉の関係を持つことがで
きる。ゆき子にしても同じことで、日本に帰って、富岡が妻とわかれてい
ないことを知れば、娼婦まがいに若い米兵と関係を持つし、伊庭ともより
を戻すし、伊庭の妾になっても富岡が尋ねてくれば烈しく慾情する女であ
る。
富岡に金を貸すのが惜しい気がしたり、邦子が亡くなったと知らされて
これからは誰の遠慮もなく富岡に一緒になれるような気もしたり、同時に
金のない富岡が哀れでもあり、生活力のなくなった富岡に魅力をあまり感
じなくもなってくる。そのくせ〈富岡の荒々しいあの時の力〉を思い出し
て微笑したりする。
富岡とゆき子をどうしようもなく結びつけ、離れがたくしているのは性
と言っても過言ではない。富岡は経済力を失っても性的力だけは失ってい
なかった。『罪と罰』のスヴィドリガイロフはロジオンに「あなたはここ
でただ淫蕩だけに、望みをつないでいるんですか?」と聞かれ、次のよう
に答えている「ふん、それがどうなんです! まあ淫蕩にもつないでおり
ますよ! だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わ
たしは少なくとも正直な質問が好きなんで。この淫蕩ってやつの中にゃな
んといっても、自然に根底を持った、空想に堕さない、一種恒久なものが
ありますよ。たえずおこっている炭火みたいなものが血の中にあって、こ
いつがしじゅう焼きつくようなはたらきをする。そして、年をとっても容
易に消すことができないんですな。ねえ、そうじゃありませんか、これで
も一種の仕事でないでしょうか?」(米川正夫訳)と。
まさに性的な力は、虚無のただ中にあってさえ燃え盛るものなのである。
「別れたあの時よりも若やいでいなければならない」
「まだ、男はできる。それだけが人生の力頼みのような気がした」
「男のない生活は空虚で頼りない気がしてならない」
「男から離れてしまった生活は考えてもぞっとする」
「年齢や環境にいささかの貧しさもあってはならないのだ。慎み深い表
情が何よりであり、雰囲気は二人でしみじみと没頭できるようなただよい
でなくてはならない。自分の女は相変らず美しい女だったという後味のな
ごりを忘れさせてはならないのだ」
「金のない男を相手にするようなことはけっしてしなかった。金のない
男ほど魅力のないものはない。恋をする男が、ブラッシュもかけない洋服
を着たり、肌着の釦のはずれたのなぞ平気で着ているような男はふっと厭
になってしまう」
「どうしても昔のように心が燃えてゆかないのだ。この男の肉体をよく
知っているということで、自分にはもうこの男のすべてに魅力を失ってい
るのかしらとも考える」
「昔の焼きつくような二人の恋が、いまになってみると、お互いの上に
何の影響もなかったことに気がついて来る。あれは恋ではなく、強く惹き
あう雌雄だけのつながりだったのかもしれない。風に漂う落葉のようなも
ろい男女のつながりだけで、ここに坐っている自分と田部は、ただ、何で
もない知人のつながりとしてだけのものになっている。きんの胸に冷やか
なものが流れて来た」
「田部は、きんの取り澄ましているのが憎々しかった。上等の古物を見
ているようでおかしくもある。いっしょに一夜を過したところで、ほどこ
しをしてやるようなものだと、田部は、きんのあごのあたりを見つめた。
しっかりしたあごの線が意志の強さを現わしている。さっき見た唖の女中
の水々しい若さが妙に瞼にだぶって来た。美しい女ではないが、若いとい
うことが、女に眼の肥えて来た田部には新鮮であった」
「色めきたつ思いのない男女が、こうしたつまらない出逢いをしている
ということに、きんは口惜しくなって来て、思いがけもしない通り魔のよ
うな涙を瞼に浮べた」
「きんは、さっき泣いた感情を消さないように、そっと、昔の思い出を
たぐりよせようと努力している。そのくせ、田部とは違う男の顔が心に浮
ぶ」
「昔のきんを思い出して、もしやという気持ちできんの処へ来たのだけ
れども、きんは、昔のような一途のところはなくなっていて、いやに分別
を心得ていた。田部との久々の出逢いにもいっこうに燃えては来なかった。
躯を崩さない、きちんとした表情が、田部にはなかなか近寄りがたいので
ある。もう一度、田部はきんの手を取って固く握ってみた。きんはされる
ままになっているだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙
管のやにを取っている」
「長い歳月に晒らされたということが、複雑な感情をお互いの胸の中に
たたみこんでしまった。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻っては来
ないほど、二人とも並行して年を取って来たのだ。二人は黙ったまま現在
を比較しあっている。幻滅の輪の中に沈み込んでしまっている。二人は複
雑な疲れ方で逢っているのだ。小説的な偶然はこの現実にはみじんもない。
小説のほうがはるかに甘いのかもしれない。微妙な人生の真実。二人はお
互いをここで拒絶しあうために逢っているに過ぎない」
「きんは、両手で頬杖をついて、じいっと大きい眼を見はって田部の白
っぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙って、眼の前にいる男を
吟味している。昔のような、心のいろどりはもうお互いに消えてしまって
いる。青年期にあった男の恥じらいが少しもないのだ。金一封を出して戻
ってもらいたいくらいだ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔っている
男に一銭の金もだすのは厭であった。初々しい男に出してやるのがまだま
しである。自尊心のない男ほど厭なものはない」

2009年7月13日(月曜)
ここに引用した叙述場面は『晩菊』からのものである。『晩菊』は『浮
雲』を発表する前年の昭和二十三年の十一月に「別冊 文芸春秋」に発表
された。わたしは昭和四十七年刊行の集英社版日本文学全集で平成二十一
年四月二十一日に読んだ。次いで『浮雲』を読み始め、四月二十五日に読
みおわった。
短期間に集中的に読んだせいか、『晩菊』と『浮雲』が重なって、この
場面はどこかで読んだな、という気がした。富岡がゆき子に借金しに来る
場面と『晩菊』が重なったわけだが、『晩菊』のきんの方がゆき子よりは
はるかにリアリティのある女として描かれている。「金のない男ほど魅力
のないものはない」「あれは恋ではなく、強く惹きあう雌雄だけのつなが
りだったのかもしれない」もし『浮雲』のゆき子がきんのように思って富
岡と接していれば、ゆき子の不幸はなかったかもしれない。
「二人は複雑な疲れ方で逢っているのだ。小説的な偶然はこの現実には
みじんもない。小説のほうがはるかに甘いのかもしれない」この思いはき
んのであると同時に作者林芙美子のものでもあったろう。きんと田部の間
には〈小説的な偶然〉はない。ところがゆき子と富岡の間には未だ〈小説
的な偶然〉が働いている。ということは、林芙美子が現実よりははるかに
〈甘い〉小説的な筋展開を設定してしまったということである。
妻邦子との離縁を約束し、日本に帰ってからのゆき子との新しい生活を
約束してひとりさっさと帰国した富岡は、ゆき子との約束をすべて反故に
して、あげくのはてに失職し、惨めな死に方をした妻に棺桶ひとつ買うこ
ともできずに、翌日にはゆき子のところへ恥も外聞もなく金を借りにくる。
こんな男のどこに魅力を発見したらいいのだろうか。現実の女きんでなく
ても、富岡はすでに〈男〉ですらないであろう。きんの言うように、金の
ない男は魅力がないし、自尊心のなくした男ほど厭なものはない。
冷徹な眼差しを注げば、ダラットでの富岡とゆき子は、故国を遠く離れ
た〈楽園〉で〈強く惹きあう雌雄だけのつながり〉を〈恋〉と錯覚したま
でのこととも言える。ゆき子は最初の愛人伊庭とよりを戻して経済的な何
不自由のない生活を送っている。そんな日常に落ちぶれ果てた富岡が返す
あてもない金を借りに来る。現実の女きんの眼差しで、とつぜん眼前に現
れた富岡を見れば、この男はクズの中のクズで、卑劣漢の役割さえ果たせ
ないダメ男である。きんに言われるまでもなく「百年の恋もさめ果てる」、
これが現実というものである。
『罪と罰』のマルメラードフの言葉を思い出したらいい。彼は地下の安
酒場で元大学生の、殺人の妄想に耽っていた一人の若者を相手に当てのな
い借金の話をし、相手にどうして絶対に貸してもらえないことが分かって
いながらのこのこ出掛けていくのかと質問されたとき、彼はしたりげに人
間にはどこかへ出掛けなければならないそういうときがあるもんですよと
答える。トルストイの愛読者でドストエフスキーの『悪霊』まで読んでい
た富岡のことである、『罪と罰』を読んでいないわけはない。妻の死んだ、
その翌日に伊庭の妾となっているゆき子のところへ金を借りに行く富岡の
心境は、このマルメラードフのものと重なるものがあったであろう。
現実は厳しい。ゆき子の家に旦那の伊庭が留守であるなどという保証は
どこにもないし、ましてやゆき子が在宅しているかどうかさえおぼつかな
いのである。東京へ出て、ゆき子の手紙の住所を頼りに尋ねて見れば、富
岡はすぐに〈伊庭〉の表札のかかった二階家を発見する。まさに〈小説的
な偶然〉と言わずして何と言ったらいいだろうか。
『浮雲』の〈五十〉は、描きようによっては膨大な叙述を必要とする。
例えば、「ペンキ塗りの門の中には、青木が赤い実をつけて雪をかぶって
いた」とある。すぐに描写は「格子に手をかけると」・・と続くが、富岡
が雪をかぶっていた青木の赤い実をどんな気持ちで見つめていたのか、ど
のくらいの時を門の前で佇んでいたのかを考えなければならない。もし旦
那の伊庭がいたら、富岡はどんな挨拶をして、ゆき子に借金の話を切りだ
したらいいのだろうか。ゆき子は独り身の女ではないのだ。
そんなこんなを考えれば、富岡がようやく捜し当てた〈伊庭の表札〉の
かかった二階家の門の格子にすぐに手をかけたとは思えない。しばしの躊
躇があり、開き直りがあり、図々しくも痛ましい覚悟をもって、格子に手
をかけ、家の中から聞こえるけたたましい飼い犬の吠え声に勇気づけられ
たかのように「思い切って、玄関のくもり硝子のはまった格子を開けた」
のである。まさに崖っぷちから飛び下りるような気持ちで、富岡は格子を
開けた。そこに、最悪の場合は伊庭の存在があったかもしれないのだ。
ところが、林芙美子は「思いがけなく、白い犬を抱いたゆき子が、突き
あたりの二階から降りて来た」と書く。『晩菊』において「小説的な偶然
はこの現実にはみじんもない。小説のほうがはるかに甘いのかもしれな
い」と林芙美子は書いたが、この場面にはまさに、現実にはあり得ない、
甘い甘い〈小説的な偶然〉が描かれている。『晩菊』できびしい現実を描
いた林芙美子は、『浮雲』では〈甘い〉〈小説的偶然〉を敢えて描いたの
であろうか。それとも、これもまた一つの紛れもない〈現実〉なのだとい
う認識が作者に働いていたのだろうか。
『晩菊』のきくの年齢は五十歳を過ぎているが、ゆき子はまだ二十代半
ばである。きくとゆき子の年齢の差も、相手の男に対する思いの差異とな
ってあらわれたのかもしれない。しかし、女というものは、二十歳半ばで
あれ、五十歳を過ぎているにせよ、金のない、自尊心を喪失した男に魅力
を感じることはないだろう。ゆき子が伊庭の妾になって経済的には恵まれ
た生活を送っていても、彼女の心が満たされていなかったことは事実であ
る。自分との結婚の約束を反故にした富岡に対する恨み、つらみ、復讐の
念はゆき子の心の底に鬱積していたことは間違いない。
ゆき子はダラットの森で富岡に強く抱きしめられ、長い接吻を交わした。
しかし、その時、富岡はゆき子に対し、接吻以上の情熱を持つことができ
なかった。全身全霊を富岡に委ねたゆき子は、富岡のその心の内を直覚し
ている。その時、とつぜん〈野性の白い孔雀〉が飛び立ったと作者は書い
た。要するに、この時、ゆき子は富岡を捨てている。しかし、このことは
ゆき子にとって〈秘中の秘〉であって、彼女自身にもはっきりと認識でき
ていない。
ゆき子は富岡を求めているが、たとえ富岡が彼女の望みを叶えてくれた
としても、実はゆき子の心の空洞を埋めることはできない。それは富岡に
とっても同じことで、彼ら二人は、お互いの空洞をさらして、その空洞を
相手の空洞で満たそうとする、どうしようもない欲求にかられることはあ
っても、その欲求を貫いたところで空洞は空洞のままでしかあり得ないこ
とを知っている。ゆき子は、みすぼらしい恰好で金を借りに現れた富岡を
見て、きくのような直接的な反応は示さない。軽蔑して追い払う気持ちも
なければ、返ってこない金を貸すのが厭だとも思わない。
2009年7月14日(火曜)
ゆき子は、きんが田部に対して抱いてしまった埋めようのない距離を、
未だ富岡に対して抱いていない。ゆき子は、すでに富岡に恋心を抱くこと
はないが〈強く惹きあう雌雄だけのつながり〉は持ちたかったのである。
ゆき子は、富岡の前で烈しく泣いて富岡の心に揺さぶりをかける。富岡は
「ゆき子が、そんなに深く自分を愛していてくれた」のかと思い違いをす
る。ゆき子にとっては、富岡がどのように思おうともはや関係ない。富岡
のうちに慾情を喚起し、抱かれることで富岡を支配できれば、ゆき子の自
尊心と心の奥深くに潜めた復讐心は満足されるのである。
富岡は己の肉体を捧げることで、ゆき子から金を借りることができた。
マルメラードフが漁色家の閣下イヴァン・アファナーシェヴィッチの淫蕩
に一縷の望みをかけて、実の娘ソーニャの処女を捧げ、その代償として金
貨三十ルーブリと再就職を決めたように、すかんぴんの富岡もまた、ゆき
子の慾情に応える自らの躯を〈担保〉にして借金するしかなかったのであ
る。
富岡を茶の間に案内したゆき子は、後ろ向きになりながら、ふっと舌を
出す。富岡がついに落ちぶれてやって来たかと思うと、ゆき子は胸のなか
が痛くなるほど爽快な気分になる。ゆき子は二万円の金で富岡の躯を買っ
たようなものである。金もない、自尊心もない、ぼろ屑のような惨めな男
に二万円の金が値するかどうかはもはや問題ではない。富岡とゆき子の腐
れ縁は、邦子の死の翌日の情事によってすら続いたということである。
ゆき子は、富岡の〈荒々しいあの時の力〉を自らの〈肉体の一点〉に強
く感じて、富岡に対して平静になれない。富岡は金もなく、職もなく、自
尊心を喪失しても、性のエネルギーだけは人一倍持っていて、それだけで
ゆき子を魅了してしまう。ゆき子は富岡の性の力に屈伏し、彼との関係を
断ち切ることができない。

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