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林芙美子の文学(連載36)林芙美子の『浮雲』について(34)

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林芙美子の文学(連載36)
林芙美子の『浮雲』について(34)

(初出「D文学通信」1240号・2009年09月15日)
清水正


林芙美子は邦子と富岡の具体的な生活の
諸相を描かなかったので、邦子の内面に
踏み込んでいくことは困難を極めるが、
富岡の眼差しに捉えられた邦子の〈死〉を通して見えてくるのは、
富岡の虚無と邦子の惨めさである。
邦子の惨めは富岡の虚無を突くことができない。


2009年7月4日(土曜)
次の章〈五十一〉は次のように始まる。
十二時の時計が鳴った、富岡は朝湯に入れて貰った。五六日も風呂に
もはいったこともない貧しい生活から、解放された気がした。コバルトタ
イルを張った、小さい浴槽いっぱいに湯は溢れ、白い外国石鹸で躯を洗い
ながら、富岡は、痩せさらばえて死んでいった妻に対して、不憫な気もし
ていた。小さい窓に雪の降りこめているのを眺め、富岡は、膨大で威嚇的
な人間社会の切断面を覗いた気がした。自分の心はどこにもない。ひろび
ろとした雪の野原を、目的もなくさすらっているような荒涼としたおもむ
きが、現実の足の裏に吸いついて来る気がした。しゅんしゅんと音をたて
てガス釜が燃えている。
(359 〈五十一〉)
『浮雲』の〈一〉は、ゆき子が三日間拘束されていた収容所を出て、敦
賀の町で一日ぶらぶらしていたところから始まる。この作品を初めて読む
読者には、ゆき子が何者で、どういう過去を抱えているのかまったく分か
らない。林芙美子はなんの前置きも説明もなく、いきなり読者を作品の世
界へと招き入れる。ゆき子は収容所で知り合った六十人もの女たちと別れ
て、税関の倉庫に近い荒物屋兼お休み処の家に入り、久しぶりに故国の畳
に寝転ぶ。ゆき子が仏印のダラットに着いたのが昭和十八年の十月半ば、
敗戦が昭和二十年の八月、富岡が海防を発ったのが敗戦後の五月であるか
ら、ゆき子が故国日本に帰国したのは三年振りの昭和二十一年、歳は二十
五ということになる。
今、なぜ『浮雲』の出だしに注目するのかと言えば、そこにゆき子が風
呂に入る場面が描かれているからである。〈五十一〉の富岡が風呂に入る
場面と重ねて読むと興味深いものがある。
宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。小人数で、風呂の水を替
えることもしないとみえて、濁った湯だったが、長い船旅を続けて来たゆ
き子には、人肌の浸みた、白濁した湯かげんも、気持ちがよく、風呂のな
かの、薄暗い煤けた窓にあたる、しゃぶしゃぶしたみぞれまじりの雨も、
ゆき子の孤独な心のなかに、無量な気持ちを誘った。風も吹いた。汚れた
硝子窓を開けて、鉛色の雨空を見上げていると、久しぶりに見る、故国の
貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸を殺して、その、窓の景色にみとれてい
る。小判型の風呂のふちに両手をかけると、左の腕に、みみずのように盛
りあがった、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞっとさせる。そのくせ、そ
の刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思い出の数々を瞑想して、
今日からは、どうにもならない、息のつまるような生活が続くのだと、観
念しないではなかった。退屈だった。潮時を外した後は、退屈なものなの
だと、ゆき子は汚れた手拭いで、ゆっくり躯を洗った。煤けた狭い風呂場
のなかで、躯を洗っていることが、嘘のような気がした。肌を刺す、冷い
風が、窓から吹きつけて来る。長い間、こうした冷い風の触感を知らなか
っただけに、ゆき子は、季節の飛沫を感じた。
(167 〈一〉)
『浮雲』全体を読み終わっている読者は、ゆき子がダラット高原で富岡
とどのような関係を持ったかを知っている。気候も景観も極楽のようなダ
ラット高原で、ゆき子は富岡を愛し、加野に愛された。三角関係の泥沼の
なかで、ゆき子は加野に刀で左腕を傷つけられた。その障害事件の具体的
詳細を作者は現在進行形のかたちで描かず、日本に帰った富岡、ゆき子、
加野の回想の中で断片的に語らせる手法を採った。
読者が富岡やゆき子に関して知っている情報はごく僅かである。読者は、
この二人の主人公の生い立ち、家族関係、友人関係の大半を知らない。ゆ
き子に限っても、実家が静岡にあることは記されていても、彼女の母や父
や姉の肖像は全く描かれていない。ゆき子は静岡の女学校を出ると、すぐ
に姉の夫の弟・伊庭杉夫の家に寄宿し、そこから神田のタイピスト学校へ
通った。伊庭は妻も子もある身でありながら、一週間目にはゆき子の処女
を奪うような破廉恥な男であるが、ゆき子は伊庭との関係を三年も続ける。
ダラットでも妻帯者の富岡と三年近くも関係を続けて、ゆき子は故国に帰
ってきた。
富岡は故国に帰るにあたって、ゆき子と結婚の口約束をしていたらしい
が、読者はその具体を知らない。人妻邦子を奪って妻にしておきながら、
ダラットでは安南人の女中ニウと毎晩関係を続けていたような男富岡の約
束などてんから当てにできないことをゆき子は知っていただろう。そんな
こんなの思いを胸の底に沈めて、ゆき子は故国敦賀の風呂の白濁した湯水
に身を委ねている。
薄暗い窓にあたるみぞれまじりの雨が、ゆき子の〈孤独な心〉のなかに
無量な気持ちを誘った、と作者は書いている。汚れた硝子窓を開けて、鉛
色の雨空を見上げれば、そこにあるのは〈故国の貧しい空〉だけである。
ゆき子が風呂場の汚れた窓から見上げた鉛色の雨空、それは敗戦国日本の
現在と未来を予告している。敗戦後六十数年の日本の〈平和〉の実態は、
戦争最中のダラットの〈極楽〉のようなものに過ぎない。
富岡は妻が惨めな死に方をした翌日の午前、金を借りるためだけに出掛
けたゆき子の家で、〈富岡の妻〉邦子の死を告げられ激しく感情を昂らせ
たゆき子と情事に落ち、その後、朝湯に入れて貰う。富岡は一週間振りの
風呂に貧しい生活からの解放感を味わい、白い外国石鹸で躯を洗いながら、
痩せさらばえて死んでいった妻に対して〈不憫な気〉もしている。
林芙美子は富岡が入っている風呂場の贅沢な作りを強調している。イン
チキ宗教で大金持ちになった伊庭の妾となったゆき子は、言わば贅沢三昧
な生活をしている。妾の女ゆき子を抱いたご褒美とばかりに、富岡は〈コ
バルトタイルを張った浴槽〉〈溢れんばかりの湯〉〈白い外国石鹸〉の風
呂に入れて貰えた。そして久しぶりの解放を味わった富岡は、ほんのつい
でとばかりにみじめに死んでいった邦子を不憫に思うのである。この富岡
の〈不憫〉は激しい〈自責〉となり、悔恨となり、良心の呵責に苛まれる
ということにはならない。富岡は小さい窓に雪の降りこめているのを眺め
ながら「膨大で威嚇的な人間社会の切断面」を覗いた気がする。
ところで、〈膨大で威嚇的な人間社会の切断面〉とはいったい具体的に
何を指しているのだろうか。この言葉をわたしは体感的に受け止められな
い。戦争の最中にあって個人は、その時代の圧倒的な力と渦の中に巻き込
まれて、自分一人だけがそこから抜け出すことはできない。戦争と敗戦、
その激動をくぐり抜けて来た富岡は、人間社会を〈膨大で威嚇的な〉もの
として感じていたのだろうか。楽園のダラットでニウやゆき子と関係を続
けてきた富岡が、はたしてどこまで人間社会を〈膨大で威嚇的〉なものと
して感じていたというのだろうか。みじめな死に方をした邦子こそが、夫
の富岡を含めて人間社会を〈膨大で威嚇的な〉ものとして感じていたので
はなかろうか。
ニウを払いのけ、ゆき子を払いのけても、富岡の核心部にたどりつくこ
とはできない。もし邦子が富岡を愛していたなら、その愛を確信するため
には膨大な層をくぐり抜けていかなければならない。しかし、たどり着け
たとしても、その核心部にあるのは虚無の煙だけである。
邦子は富岡に膨大な虚無の層と威嚇的な壁を感じて、手も足も出ない状
態に陥っていたのかもしれない。林芙美子は邦子と富岡の具体的な生活の
諸相を描かなかったので、邦子の内面に踏み込んでいくことは困難を極め
るが、富岡の眼差しに捉えられた邦子の〈死〉を通して見えてくるのは、
富岡の虚無と邦子の惨めさである。邦子の惨めは富岡の虚無を突くことが
できない。
「自分の心はどこにもない」「ひろびろとした雪の野原を、目的もなく
さすらっているような荒涼としたおもむきが、現実の足の裏に吸いついて
来る気がした」・・このように書いた林芙美子は富岡の虚無を共有してい
る。人物の中で富岡の虚無に肉薄できるのは、孤独な心で風呂場の汚れた
硝子窓を開けて故国の貧しい鉛色の空を眺めていたゆき子だけだったかも
しれない。ゆき子は作者林芙美子の精神と肉体と感覚を反映した人物であ
り、富岡という男のどうしようもない荒涼とした精神世界を彼女なりに共
有している。
富岡は敗戦後の日本で「目的もなくさすらっている」が、それは伊庭の
妾となったゆき子もまた同じである。しゅんしゅんと音をたてて風呂のガ
ス釜は燃えているが、その音を聞いている富岡にそれと同調する熱い思い
は微塵もない。ガス釜の燃える音は、何の目的もない富岡の荒涼とした内
的雪原に虚しく響いていくだけである。
柔い蒸気に顔をなぶられながら、富岡は、鏡のなかを覗きこんで髯を
剃った。伊庭の使いつけの安全剃刀なのであろうが、毒食わば皿までの心
理で、じょりじょりと、富岡は、心にひやりとする刃を頬にあてていた。
把捉しがたいさまざまの世を渡って、ここに行きついた人間の、卑しさが、
富岡には苦味いものでもあったのだ。人間は、単純なものであった。些細
なことで、現実はすぐ変化する。案外傷ついてもいない。すぐ、起きあが
って微笑む。
(359 〈五十一〉)
2009年7月5日(日曜)
ゆき子をめぐって富岡と加野の間に確執が生じた。加野は嫉妬に駆られ
て富岡を刺そうとした。結果は止めに入ったゆき子の左腕を傷つけてしま
う。林芙美子はその現場を現在進行形で追わずに、三者三様の回想のかた
ちで描いた。事件と回想の間には時の層が体積し、事件を生々しく伝える
ことはできない。事件を冷静に客観的に振り返ることはできても、そこに
臨場感をそえることは容易ではない。
もともとゆき子は白い肉の加野に心惹かれることはなかったが、惚れた
富岡を獲得するためのダシに加野を利用した。加野は一途な男で、ゆき子
の魔性に気づくこともなくまんまとその罠に落ちた。加野はゆき子に怒り
を爆発させるのではなく、その矛先を富岡に向けた。嫉妬が高じて憎悪と
なり、憎悪が高じて殺意となる。
富岡は加野がゆき子の後を追って二人きりになったことを知った時、不
快の念を感じるが、それをはたして嫉妬と言えるかどうか。嫉妬はすでに
敗北を認めた者の卑しい感情である。富岡はゆき子に対して絶対的な自信
があったから、加野に嫉妬することはない。伊庭の妾になったゆき子に金
を借りにいって、ゆき子と情事に落ちても、富岡にはこれといった卑屈な
感情は生起しない。ゆき子は富岡に惚れていても、伊庭と情交できる。富
岡はゆき子を独占しようなどという気持ちはなく、すべてはなるようにし
かならないという諦めの流れ雲に身を委ねている。富岡は柔い蒸気に顔を
なぶられながら、鏡を覗き込んで髯を剃る。

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