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林芙美子の文学(連載35)林芙美子の『浮雲』について(33)

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林芙美子の文学(連載35)
林芙美子の『浮雲』について(33)

(初出「D文学通信」1239号・2009年09月14日)
清水正

林芙美子のペンは驚くほど冷静で、
男と女の高揚した感情の裏にうごめく
打算や駆け引きを見事に浮上させている。


2009年7月1日(水曜)
ゆき子に借金をしに行く富岡の姿は惨めの極である。富岡は父親の古ぼ
けた外套を着て、ゆき子の手紙の住所を頼りに尋ね歩く。ゆき子は伊庭の
表札の出ている家に住んでいる。久しぶりに富岡とゆき子が会った場面を
作者は次のように書いている。
思いがけなく、白い犬を抱いたゆき子が、突きあたりの二階から降り
て来た。黄ろいジャケツを着て、黒い洋袴をはいたゆき子は、みすぼらし
い富岡を眺めて、初めは気をのまれたように、しばらく、ものも言えない
ふうで、玄関に立っていた。
夏ごろのゆき子とは、すっかり面がわりして、ふっくらと肥り、躯つ
きも若々しく豊かになり、仏印のころのゆき子の面影を取り戻していた。
犬は毛の長い、蒼白な犬で、赤い舌を出して、富岡に、神経質に吠えたて
ている。ゆき子は犬の頭をきびしく殴り、
「まア! どなたかと思いましたわ……」と、言った。
富岡も、女の姿の激しい変化を見て驚いた様子だった。ゆき子は、す
ぐ、犬を二階へ連れてあがり、襖を手荒く閉した音がしたが、やがて階下
へ降りて来て、富岡を茶の間へ案内した。ゆき子は、後向きになりながら、
ふっと舌を出した。とうとう富岡が、落ちぶれてやっと来たと思うと、胸
のなかが痛くなるほど、爽快な気がした。
(357 〈五十〉)
2009年7月2日(木曜
ゆき子は富岡が金を借りに来たことがすぐに分かったが、そのことには
触れずに炬燵に入ることをすすめる。富岡は出勤の話をなかなか切りだせ
ない。ゆき子の暮らしぶりをじろじろと眺めながら、「伊庭君は?」など
と尋ねてみたりする。ゆき子はインチキ宗教でぼろ儲けをしている伊庭の
妾になって金銭的には何の苦労もなく、毛の長い真っ白な犬などを飼って
優雅な生活をしている。落ちぶれ果てて、昔の女に金を借りに来た富岡は
「終戦以来、男はだめで、女のほうが逞ましくなったね……」と呟くよう
に言う。直後の場面を林芙美子は次のように書いている。
ゆき子は茶を淹れながら、「そうかしら」と、また、取りすまして言
った。これが、今日まで恋いこがれていた富岡だったのかと、二ツ三ツ年
を取った、富岡のすっかり変った様子を、ゆき子は目尻を掠めて眺めなが
ら、自分の冷静さが不思議な気持ちだった。
「邦子が、昨日、亡くなったンだよ」
「まア、奥さま、お亡くなりになったの?」
ゆき子は眼を瞠った。いつか、二度ほど逢った、富岡の妻のおもかげ
が、瞼に浮んだ。富岡をつけまわっている時に、五反田の家の近くで、細
君に逢った時の印象が忘れられなかった。ゆき子はいまごろになって、か
あっと涙が噴いた。富岡は、無頼漢のような気持ちで、昔の女に金の無心
に来ていたのだが、ゆき子のほとばしるような涙を見ると、ちょっと、驚
いた様子だった。急に、この女との辛酸をなめた昔の思い出の数々が、富
岡の荒涼としたハートをゆすぶった。何も言えない気がして、ゆき子の泣
きじゃくるのをぼんやり眺めていた。
ゆき子は、富岡との感傷で泣いたのではないのだ。あの時の、野良犬
にもひとしかった、自分のみじめさを思い出して泣いたのだったけれども、
自分の涙が、富岡に対して、案外な効果があったことを知ると、ゆき子は、
もう我慢のならないようなあけっぱなしな泣きかたで、鏡台の上にあった
濡れタオルを取って顔に押しあてた。
あっけにとられて、富岡は、ゆき子の泣く姿を眺めていたが少しずつ
動悸が激しくなり、タオルにしみた香料の匂いが、なまめかしく鼻をつい
た。富岡は激しく泣いているゆき子のそばに行き、ゆき子の肩を抱いて、
タオルを引きむしった。ゆき子が、そんなに深く自分を愛していてくれた
のかと嬉しかった。ゆき子の柔い首を抱き、富岡は激しく接吻をした。新
しい女に触れるような、新鮮な香りがして、富岡は気忙わしく、ゆき子の
大きい腰を抱いた。ゆき子は診察を受ける患者のように、富岡にされるま
まになっていた。やがて二人にだけ共通した秘密な思い出が、案外なとこ
ろで、共通の経過をたどって、万事は最上の心の痛みを分けあった。
(35
8 ~359 〈五十〉)
昨日、妻の邦子は、みじめな暮らしのなかで、みるかげもなく衰え、自
殺にも等しい死にかたをした。棺桶を買う金もない富岡は、恥を忍んでゆ
き子のもとを訪れ、邦子の死を告げられて激しく泣きじゃくるゆき子を抱
く。ここにあるのは男と女の、きれいごとでは片づけられない心と肉のど
うしようもないドラマがあるだけである。不謹慎もくそもへったくれもな
いのである。
最初にゆき子が富岡と話を交わした場面を想起してみればいい。そこで
二十二歳の新参者のタイピストゆき子は、三十半ばの有望な山林事務官富
岡の毒舌に傷つき泣いて外へ逃げだした。泣きも、激しい抗議も、その場
からの逃亡も、惚れた男富岡を自分の網にかける巧妙な手口には違いない
が、しかし、この時、富岡がゆき子にたいして圧倒的に優位な立場にあっ
たことを忘れてはならない。ゆき子がこのとき、深く傷つき、屈辱を感じ
たことは確かで、こういった痛めつけられた感情は、密かに復讐の時を待
ち続けるのである。ゆき子は富岡にたいしてばかりではなく、自分の処女
を奪った伊庭杉夫にたいしても復讐の牙を隠している。富岡の落ちぶれた
姿を冷酷に掠め眺めるゆき子は、今まさに復讐の美酒を口に含んで味わっ
ている。
富岡はゆき子に漂う余裕にうちかつことができない。この余裕にたいし
て、借金の話を持ち出すことはできない。そこで富岡は妻の邦子の死んだ
ことを告げる。ゆき子は邦子の死まで予測することができていなかったの
で、富岡の言葉は実に効果的に働いた。富岡は「邦子が、昨日、亡くなっ
たンだよ」のひと言で、ゆき子の優位性をなし崩しすることに成功する。
ゆき子は眼を瞠り、富岡を追い回していた頃の自分のみじめな姿を思い出
して涙を迸らせる。
ゆき子は妻帯者の富岡に惚れ、ダラットで三年近くも男と女の関係を続
けた。富岡は、日本に帰ったら邦子と別れてゆき子と二人で新しく所帯を
持とう、などという話をしていたのかもしれない。それが、嘘か真かは知
らないが、そんな言葉を信じて甘い夜を過ごしたこともあっただろう。し
かし富岡は邦子とは別れないままに、だらだらとゆき子との関係も続けた。
ゆき子はゆき子で外国人のジヨーと関係したり、伊庭との関係も成り行
きで復活させている。もともとゆき子は、妻のある男と関係しても、妻と
別れて自分と一緒になってくれと強く要求するタイプの女ではない。むし
ろ、ゆき子は誰かほかの女に所有されている男に惚れる傾向があったと言
えるかもしれない。
男と女の関係はどんな場合でも微妙で、簡単に割り切れるものではない。
もし富岡が邦子と別れて、ゆき子と一緒になった場合を想定しても、それ
がはたして二人にとって幸せだったかどうかは分からない。富岡はゆき子
と結婚しても、おそらくほかの女とも関係を持っただろうし、ゆき子も家
に引っ込んで夫の帰りをひたすら待っていられるような、専業主婦的タイ
プの女とは思えない。
女の涙は苦くて甘くて、理解しようとすればたちまち溶けてなくなる。
作者は林芙美子で女であるから、ゆき子の涙を的確に理解していると言え
ようか。邦子の死を告げられて、ゆき子はすぐに〈富岡の妻〉のおもかげ
を瞼に浮かべる。作者は「富岡をつけまわっている時に、五反田の家の近
くで、細君に逢った時の印象が忘れられなかった」と書いた。ゆき子は邦
子の死を悲しんでいるのではない。邦子の死に自責の念を抱いている富岡
の心情に寄り添っているのでもない。ゆき子には、伊庭の場合もそうだが、
自分と関係した男の妻にたいする疚しさなどというものはほとんどない。
〈富岡の妻〉がなぜ自分ではなく邦子なのか。富岡に惚れて関係を持っ
たゆき子にしてみれば、〈富岡の妻〉が依然として邦子であることは、い
わばそのこと自体が彼女にとっては不条理なのである。言わばゆき子はこ
の〈不条理〉にずっと耐えつづけてきた。それが、今、とつぜん富岡の口
から邦子の死が告げられたのである。〈不条理〉に耐えていた緊張がいっ
ぺんに弛緩した、その結果がゆき子の迸る涙である。
トルストイの愛読者、ドストエフスキーの『悪霊』の読者でもあった山
林事務官の富岡は、眼前のゆき子の迸る涙の真意をくみ取ることができな
い。ゆき子の迸る涙に驚く富岡を、作者は「急に、この女との辛酸をなめ
た昔の思い出の数々が、富岡の荒涼としたハートをゆすぶった。何も言え
ない気がして、ゆき子の泣きじゃくるのをぼんやり眺めていた」と書いた。
富岡は、ゆき子が〈富岡の妻〉のことで苦しみ悲しみ諦め自棄になってい
たことを正確には知らない。正確に知らないから、〈富岡の妻〉の死を告
げられて激しく泣くゆき子の〈感情の爆発〉(ドストエフスキーの人物た
ちはほとんど例外なくこの激しい感情〔ナドリッフ=надрых〕に襲
われる)に同調することができない。
作者林芙美子は冷静に富岡を描いている。否、強い調子で「ゆき子は、
富岡との感傷で泣いたのではないのだ」と書く。林芙美子は女の純情も弱
さも描けるが、女の強さも、女の狡さも描けるのである。ゆき子は富岡を
つけまわっていた頃の野良犬のような惨めさを思い出して泣いている。ゆ
き子は、〈富岡の妻〉邦子のみじめな死にたいする同情、憐憫で泣いたの
ではない。ゆき子の涙は〈自己愛〉の次元を一歩も越え出ていない。ゆき
子は〈自分のみじめさ〉に泣くのであって、邦子の〈みじめさ〉に泣く女
ではない。
今、ゆき子は〈富岡の妻〉邦子の死を知って、邦子に対する絶対的な優
位を得て、安心しきって涙を迸らせているのである。このゆき子の残酷な、
勝利者の涙の真意を理解できない富岡は、泣きじゃくるゆき子の姿をぼん
やり眺めていることしかできない。ゆき子は、自分の涙の真意を富岡に分
かってもらおうなどとは思っていない。涙の効果が予想外に大きいと感じ
れば、それをさらに利用するだけのことである。
ゆき子は邦子の死を告げられた時に、今までの不断の緊張から解放され
て、突然大笑いしてもよかった。まさに勝利の瞬間の歓喜を思う存分発揮
してもよかったはずなのである。しかし、富岡のみすぼらしい惨めな姿に
よって、すでにゆき子は勝利の美酒を味わっていた。今更、さらなる勝利
の表現は余りにもはしたない。それにゆき子は、富岡を未だに愛している。
富岡に復讐して、痛い目にあわせて追い出すつもりはない。ゆき子が願っ
ているのは、泣きじゃくることで、富岡の慾情を刺激し、肉体的に合体す
ることである。
〈富岡の妻〉がみじめに死んだ翌日、金を借りにきたみじめな男富岡に
抱かれることで、ゆき子の積年の辛い思いは束の間癒されることになろう。
それにしても男と女の慾情とはどうしようもない性を潜めていて、邦子
の死が二人の慾情を強く刺激してしまう。エロスはいつも死を孕んでいる
からこそ妖しく激しく燃え上がる。それだけではない、ここには金を借り
にきた富岡にたいして、躯を抱くことを交換条件にしたゆき子の巧妙な無
意識に近い戦略も潜んでいる。
富岡を茶の間に案内しながら、後ろ向きになって富岡に気づかれないよ
うに舌を出したゆき子を、作者は「とうとう富岡が、落ちぶれてやって来
たと思うと、胸のなかが痛くなるほど、爽快な気がした」と書いた。こう
いう女はそっと赤い舌も出すし、涙も迸らせるし、相手の男の誤解も利用
しつくして、自分の目的を達するのである。
男と女は自分も相手もうまく騙し尽くして、お互いの欲望を満足させる。
富岡は、鏡台の上にあった濡れタオルを顔に押しあてて激しく泣いている
ゆき子の肩を抱いて「そんなに深く自分を愛していてくれたのか」と嬉し
がる。
富岡の目的は、ゆき子を抱くことではなかった。富岡は妻の葬式を出す
ための金を借りに、わざわざゆき子を尋ねてきたはずである。その目的を
達するために、富岡は無頼漢のようにいきなり借金を申し入れるつもりが、
茶の間の炬燵に案内されて作戦を無意識のうちに変えた。邦子の死を告げ
ることでゆき子の心を揺さぶり、続いて敢えてゆき子の誘惑にのった。ゆ
き子の巧妙な誘惑に、富岡もまた自分を愚かな男に落として、まるでそれ
が誘惑ではなかったかのように見なしてゆき子の躯をはげしく求めたので
ある。
林芙美子のペンは驚くほど冷静で、男と女の高揚した感情の裏にうごめ
く打算や駆け引きを見事に浮上させている。「ゆき子の柔い首を抱き、富
岡は激しく接吻をした」と作者は書いている。ここで再び、富岡がダラッ
トの森で初めてゆき子に長い接吻をした場面を想いだしておこうではない
か。あの時、富岡は接吻以上の情熱にかられることなく、ゆき子を放して
いる。その瞬間〈野性の白孔雀〉が飛び立って森のなかへと消えていった。
ゆき子はもちろん、作者の林芙美子も知っている。富岡がゆき子を本当
には愛していなかったことを。恐るべき孤独、ゆき子はこの孤独を自分に
も秘密にした。作者林芙美子もまた、ゆき子の〈秘中の秘〉に触れようと
はしない。おそらく、ゆき子の孤独は林芙美子の孤独でもあった。
ゆき子と林芙美子の恐るべき孤独を分かったうえで、次の描写を読めば
いい。「新しい女に触れるような、新鮮な香りがして、富岡は気忙わしく、
ゆき子の大きい腰を抱いた。ゆき子は診察を受ける患者のように、富岡に
されるままになっていた」・・何か淋しく、悲しく、そして滑稽な感じの
する場面である。金を借りずには帰れない落ちぶれ果てた富岡を、香料を
しみ込ませた濡れタオルで誘惑したゆき子、それを知ってか知らずか、う
まく自分の心を騙してゆき子の肩を抱き、首を抱き、激しく接吻し、そし
てそこで止めずに気忙しくゆき子の〈大きい腰〉を抱く富岡、かつてダラ
ットの森で〈白孔雀〉となって飛び去ったゆき子は、ここでは「診察を受
ける患者のように、富岡にされるままになって」いる。
林芙美子は〈富岡の妻〉が死んだ翌日の、富岡とゆき子の情事を裁かな
い。作者は限りなく「二人にだけ共通した秘密な思い出」に無言で寄り添
い、二人が「最上の心の痛みを分けあった」ことをさらりと報告するにと
どめている。

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